9月28~30日に,日本特殊教育学会第50回大会が開かれました。
そして29日の午前中には,学会企画シンポジウムとして「大学における障害学生支援の現状と課題〜研究と実践の視点から考える支援Qualityの向上〜」が開かれました。
障害学生支援のテーマがついに学会企画になる時代を迎えたんだなぁと,ちょっと感慨深く思いつつ,参加。
しかし,内容的にはちょっと消化不良で残念でした。
今,まさに時代の変わり目。
障害者権利条約の批准に向け,めまぐるしく動いています。
「権利」条約ですから,障害者支援は,今や,権利保障の問題として語られなければなりません。
昨年8月5日からは障害者基本法が改正されました。
そして今年6月からは,文科省高等教育局に「障がいのある学生の修学支援に関する検討会」が開かれており,高等教育で求められる合理的配慮のあり方についての検討が始まりました。
今回のシンポジウムの企画者のうちのお二人は,この検討委員でもあります。なので,司会進行自体は,そうした時代の流れを踏まえて「権利性」を意識しておられました。
しかし,シンポジスト,そしてフロアの聴衆が,果たしてそうした時代の変わり目を意識できたかどうか? ここに大きな問題性を感じた次第です。
特殊教育学会ですから,その道の専門家集団のはず。そしてテーマは高等教育機関での障害者問題ですから,自分たちの足下の問題です。そこが揺らいでいるのは,なんとも,言葉が出ません。
シンポジストの発表を一通り聞き,多くの発表が時代の変わり目を全く意識していないものだったことに多少いら立ちを覚え思わず質問をしました。おおよそこういう内容でした。
「障害者権利条約への批准に向けて,文科省でも検討が始まった状況を踏まえると,障害学生支援は『学ぶ権利の保障』という観点で考えていく必要があると思います。ということは,保障ができなかった場合には,大学には一定の責任が発生するのではないか。そこで,大学の責任についてどのように考えるかについてご質問します。
教員の都合で授業を休講したら,補講するのは教員の責任です。学生がサボったら,学生の責任。では,ノートテイカーが来なかった場合はどうなるでしょうか?」
ところが回答は,「うちの大学では,ピアサポートの意義を重視しているため学生自身がテイカーを探すようにしている。とはいえ,それは学生に責任を押し付けるわけではない。見つからない場合はセンターの方で責任を持って探す。」というもの。
意図が伝わっていないと思ったので,再度質問。
「お尋ねしたいのは,それでも見つからなかったらどうするか,ということです。群馬大学でも障害学生サポートルームでコーディネートをしていますが,それでもどうしてもテイカーが見つからないという事態は,絶対発生しないとは言えないものです。テイカーがうっかり忘れてしまうことも,体調を崩すこともありますし。聴覚障害学生にとっては,テイカーがこないということは,教員が来ないのと同じことで,一大事なわけです。その時に大学としてどう責任をとるべきか,という質問です。」
すると,しばらく考えこまれた後で,「そのような事態はうちの大学ではなかなか考えにくいので…ただもし誰もテイカーがいないということになれば,近くにいる他の学生がなんとかサポートしてくれると思う。それは本来のノートテイクよりも質は落ちるかもしれませんが」とのお返事でした。
うーん,やっぱり意図は伝わらないなぁと思ったのですが,これ以上は全体に迷惑ですし,場にそぐわない気もしたので,質問を打ち切りました。
お答え下さった先生の名誉のために補足しますと,この先生,とても良い先生ですし,尊敬もしています。気さくな方ですので,ありがたいことに,年齢を超えて,腹を割っていろいろお話しができる先生です。そして,これまでの障害学生支援を牽引してきた立役者の中の1人でもあります。その働きには100%の敬意を払いつつ,あえてその先の課題に目を向けなければならない,そんな時代を迎えていると私は考えています。
ここに,1つの落とし穴を感じました。
それは,これまでの障害学生支援を牽引してきた人,あるいは「先進的」な大学ほど,学生同士の「ピアサポート」「助け合い」をよしとして支援体制を発展させてきた歴史があるわけです。しかし,学生同士の「助け合い」と,「学習権の保障」とは別問題。今まで実践を積み重ねてきた分,かえって頭の切り替えが難しいのかもしれません。
私が質問として問いたかったのは,「テイカーが配置できない」という事態が発生しないように大学として責任をもつ,ということではありません。それは責任をもって当然のことです。問いたかったのは,最大限努力してもなお,「テイカーが配置できない」事態が発生した場合に,その配置できなかった分の授業の補償をどうするのかということです。
皆,授業料を払って受講しているわけですから,「1人の学生くらい,たいした問題ではない」ということではないはず。
これ,民間のサービスに置き換えたら,当然のことです。
例えば,ライブチケット。お客さんが一万人いたら,一人や二人くらい,壁で遮られて全くアーチストが見られない席に案内してもいい,という話ではありません。
あるいは,レストランで割引券を使ったから,そのお客さんへの対応がずさんだったり,おいしくない料理でいいはずもありません。
どのお客さんも,同じように客としてのサービスを受けられなければいけないわけです。
*なお,ライブのチケットの場合,場所によっては見えにくい席になる可能性があることは,事前に断り書きがあります。そして実際,私の経験でも,日本武道館で,視界の3分の1が壁で遮られていた席だったこともあります。それは事前に断り書きがあることもありますが,まあ,許容範囲なのでしょう。見えないわけではないですし。しかしその一方で,こんな経験もあります。大学生の時,横浜アリーナでの長渕剛のライブを見るべく,バックステージ席(ステージの裏側で,基本的にはアーチストの背中を見続ける格好になる)を,バックステージ価格で購入した際のこと。当日,行ってみたら,「バックステージ席の人たちは席が変更になりました」と掲示されていて,何とその席は,アリーナ席(一階席)の最もステージ寄り!その理由は,当初予定を変更し,ステージの後ろ側に壁を立てる形にしたので,バックステージ席からは完全に見えない形にしてしまったため,とのこと。これが,「補償」ということなのだと思います。
受講生の中で,大学側の不備により,授業が全く聞けない学生が発生した場合,何らかの「補償」をする責任が発生するはず。教員が個人的に指導するなり,方法はいろいろ考えられるでしょう。
さらに言えば,その補償をすることなく,しかもその授業の範囲が試験に出て,それが回答できなかったために,評価が低くなってしまったら,それは誰の責任なのか。成績評価,単位認定は大学にとって最重要事項の1つですから,それがいい加減であってはまずいはず。
さて,しかしながら,こうした議論はこれまでキチンと交わされてこなかったと思います。私自身も含め。でも,こうした議論をしてこなかったこと自体が,「障害学生は十分な情報が得られなくてもしかたがない」と大学が思ってきていたことの表れであり,学ぶ権利の保障を真剣に考えていなかったことの表れでもあると思うのです。
今まではともかくとして,今議論すべきことは,権利条約の批准のために,「どのようにして障害学生の学ぶ権利を保障するか」ということ。それは,「大学の責任」を真剣に問う作業でもあるのだと思います。
その一方で,「合理的配慮」は「実施に伴う負担が過重でないときは」という条件が付いているではないか,という反論もあるかもしれません。
それに対しては,こう逆に問いかけたくなります。
例えば手書きのノートテイクは,話し言葉の2割程度しか文字化できません。全ての授業にノートテイクをつけたとしても,2割の情報しか得ていない状況をもって,そもそも「権利が保障されている」と言えるのか?と。手話通訳であっても,スキルが十分でなければ,授業の情報は十分には伝えられません。PCテイクでも,誤字を含んでいたり,情報量も8割程度だったりします。いずれも情報保障者のスキルに大きく依存しますが。
「情報保障が用意されていたとしても,聞こえる人たちと同レベルの情報が保障されているわけではない」ということ。この問題にしっかりと目を向けておかなければなりません。
「聞こえる学生と同等の文字量で,誤字もない形で文字化すること」は,今の支援技術の水準からすれば,不可能ではありません。しかしそれなりのコストも人員も必要になります。それを全ての授業において要求することは,現時点では「過重な負担」と言えるかもしれません。
…でもみなさん,考えてみてほしいのです。
「本来受けるべき授業に,(残念ながら)必ずしも十分な質が保証されているわけではないレベルの情報保障が,とりあえず全て配置されていること。」
これは「過度な負担」を求める贅沢な要求なのでしょうか?
私には,これは現時点での最低限の「学ぶ権利の保障」であり,これすら下回ってしまうことは,大学が果たすべき責任を放棄していると思うんですよね。
ぜひ,全ての大学が,一刻も早く,とりあえずこの最低限の水準に到達することを願いつつ,学会のシンポジウム会場を後にした次第です。