【ややネタバレ注意】
なんと,5年ぶりの投稿です。
(投稿の仕方も,忘れてしまっていました…)
ドラマsilentが,はやっています。私も見逃し配信で追いつき,今は次が楽しみで毎週見ています。
とにかくよくできていると思います。セリフに構成に。
特に第6話は,必見!
これは,聴覚障害に関わる人,特に,聴覚障害学生支援や,聴覚障害ソーシャルワーカーは絶対見ないと。
「聞くね」という奈々のセリフは,本当に,名セリフ。思わずホロリ。
奈々のこの感性ですが,もちろん聾者で感受性が高くて,サポーティブな人もたくさんいますから,自然にあり得ると言えばあり得るのですが…私の経験的な感覚では,この行動って,自分も手話が分からない中で孤独を経験したことがある,インクルーシブ経験者のレイトサイナーが,手を差し伸べる感じなんですよね。
さてさて。
「聾者の役は聾者がやるべき」といわれます。その観点で,silentは聾者の役者も入っているのが評価されたり,でも主役級の想と奈々が聴者なのが残念,ともいわれます。
ですが。
想は,中途失聴者でレイトサイナー。ネイティブっぽかったら,むしろ変です。
「中途失聴者がやるべきだ」なら,わかりますが,聾者がやる方が難しいと思います。
そして奈々は?
聴者が演じるので,「ネイティブサイナーっぽくない」という指摘はあるのですが,では,例えば先天性聾者で,聴覚主導の聾学校幼稚部を卒園し,通常学校を経て,大学で聾学生との出会いから手話の世界に入っていったレイトサイナーというケースだったら?こういう人,とっても多いです。今や,大学は聴覚障害者が初めて手話と出会い,手話の世界に入っていく貴重な場になっています。
仮の設定ではありますが,そうだとしたら?
ネイティブっぽいくらい手話が熟達する人もいますが,そうではない人もたくさん。
なので,「ネイティブっぽくない」のは不自然ではない,ということになります。
そして,そう考えると,だからこそ,奈々の友人の聾者である美央が,初心者向けにわかりやすく手話をしているのに,それが想には痛い!という状況に深みが出てくる。つまり,美央こそがネイティブサイナーである意味が出てくる。
それと,手話教室。
聴者の先生と聾者の先生がいる。聴者の春尾先生,謎めいてますね。聾者との係わりで,何かあったのでしょう。たぶん。
そして,聾者の澤口先生に,君には壁を感じると言われる。この聾者も,ネイティブサイナーでないといけない。
手話教室の聾者の先生ですし,「壁を感じる」のセリフはネイティブの聾者だからこそ,活きる。
そう考えると,どうでしょう?
silentは,見事に,ネイティブサイナーでなければならない役どころを,ちゃんと抑えているといえるのではないでしょうか。
7月30日(土)の「ろうを生きる 難聴を生きる」に出演しました。
なお,再放送は,8月5日(金)午後0時45分からです。
この番組に出たのは,これで4回めになります。最初は(なぜか)読み取り通訳者として,声の参加。(諸事情ありまして…笑)
次が,京都大学で開かれた音声認識字幕のシンポジストとして。音声同時字幕システムの群大での運用の報告をしている様子を。
3回めが,群大の聴覚障害学生支援の特集。解説者としてスタジオ出演。この時に,松森果林さんと初めてお会いしました(懐かしい!)。
そして今回は,研究室での撮影。実際はいろいろと話しをしたのですが,その中で,わかりやすくインパクトのあるところが切り取られた形です。
そもそも大きな,難しいテーマを15分にまとめるわけですから,編集される側も相当ご苦労があったことと思います。なので,短く削られてしまったこともやむを得ませんし,その編集作業に敬意を払いこそすれ,批判をするつもりはありません。
…ただでも,口話法の成功する要因は,附属聾副校長(当時)の馬場先生(1996)が,13の条件がある,と指摘しているわけですし,私も打合せ段階では特に4つあげました(残存聴力,失聴時期,家庭環境,知的な能力)。それを,知的な能力(知的障害の有無など)は削りましょうということになり,撮影。でも,結果的に編集後に残ったのは,残存聴力と失聴時期だけになっていました。これもやむを得ないとは思いますが,これだけと思われると誤解が起きるかなぁとも思った次第。
スタジオテイクは,基本,一発撮りなので,喋ったことがそのまま放映されます。ある意味,自己責任(それはそれで,失敗すると凹みますが…)。編集が入るかどうか,どちらも一長一短ですね。
1つ,残念なこと…ネクタイ,曲がっとるやん!(笑)
「福祉ネットワーク」で,聾重複のスタジオ解説者として出演したこともありました。それも含めると,いくつかのテーマで出演したことになります。でも,「聾教育の指導法における手話導入」という,まさに自分が最も長く研究してきたテーマで話ができたことは,やはり嬉しいです。
手話言語条例が各地で制定されており,手話言語法の制定に機運が高まっていることへの追い風になるといいかなとも思っています。
近年,論文検索システムが充実してきたことに加え,フリーダウンロードできる学術論文が増えてきました。
私が大学生,大学院生だった頃,図書館に籠もり,1つ1つ手作業で先行研究を調べ,そして1つ1つコピーをしていたのが,嘘のようです。
もちろん,これ自体は喜ばしいこと。
私自身,今はこの恩恵にあずかっています。
ただその一方で,問題がないわけでもありません。
フリーダウンロードできる論文の多くが大学紀要であるということです。
会費によって運営される学会誌の場合,無料配布というわけにはいかないという事情もあるのでしょう。
そうなると,困った逆転現象が起きます。
厳しい査読を経た学会誌の方が,いちいち複写依頼をしたり,あるいは現物を取り寄せたりしなければならないので,面倒になります。
一方,手っ取り早く読める紀要論文は,査読がありません。
すると,学生たちは,卒論,修論に取り組むのにあたり,自分の関連するテーマの論文検索をかけ,ヒットしたもののうち,手っ取り早く読めるフリーダウンロードできる論文だけを集めて,引用文献を整えてしまいます。
本来,先行研究というのは,手に入りやすいかどうかで取捨選択すべきものではないはず。
自分の研究に密接に関連するならば,たとえ入手困難でも,そして日本語でなくとも,意地でも手に入れなければなりません。
なぜなら,論文というのは,オリジナリティが求められるから。
自分の研究がオリジナルであることを主張するためにも,先人たちの血と汗と涙の結晶である「先行研究」に敬意を表し,その成果を踏まえて,一歩先に進ませてもらうことが大事になります。
すなわち,「入手の容易さ」ではなく,「読みたい論文」を手に入れなければならないはず。
ところが,あまりに容易に,そしてそこそこの数のフリーダウンロードできる論文が増えてしまったために,「読みたい論文」よりも,「読める(手に入る)論文」を収集して済ませてしまうという逆転現象が生じてしまう。
それはとても残念なことです。
執筆した側からしても,苦労して査読をくぐり抜けた「渾身の一作」よりも,「やっつけ仕事」的な論文が多く読まれてしまう。これは研究者として残念。
また,学生がそのようなクセを身につけてしまうと,良質の論文に触れ,論文の質を見極めるトレーニングを積む機会が失われてしまう。これは研究者養成として残念。
そんなこともあり,ここ数年,学生の卒論指導や院生の授業では,あえて「フリーダウンロードできる紀要論文ではなく,査読のある学会誌を選び,発表して下さい」と条件をつけています。
もちろん,紀要論文でも秀作はありますし,学会誌が良いものとは限らないんですけどね。
2013年は,人生の節目でした。
聾の先生と一緒に開設している教養科目「手話とろう文化」。今年度で4年目になります。
群馬大学では,これまで何人もの聴覚障害学生を受け入れ,そして送り出してきました。ただ,その多くは通常学校出身の聴覚障害学生でしたし,手話ユーザーである聾学校卒の聾学生は,大学院か専攻科に在籍していました。
そして昨日,群大で初めて,聾学校卒の聾学生が,同級生とともに4年間の学びを終え,無事,卒業式を向かえました。
学部生の場合,サークルや友人同士の関わりがとても大事ですから,授業の情報保障そのものよりも,話ができる友人をいかに作り上げるかが学生生活の鍵。
幸い,1年生のスタートの時から,あっと言う間に手話を覚えていく仲間に恵まれました。
そして昨日。
卒業式は公式の場ですから壇上で手話通訳が行われましたが,その直後の卒業祝賀会では,本人は情報保障を依頼しないと言う選択をしました(これも教育学部全体で行われる行事なので,これまでは障害学生サポートルームが通訳を派遣していました)。
要は,いつでも,たまたま隣にいる友人が,サッと手話通訳をしてくれる環境ができあがっていたということ。祝辞等々の挨拶も,事務連絡も。それも,「手話が上手い人が通訳をする」のではなく,本当に,たまたまそばにいた友人が。
私の認識では,決して手話が上手い方ではなかったような…という学生たちが通訳をしている様子に,驚きとともに感慨深い思いがこみ上げてきました。
そして夜の謝恩会。専攻内の内輪の会なので,学生相互の手話通訳で進みました。4年間の思いでの詰まった写真や動画のスライドショーの上映では,動画には色分けされた字幕あり,音楽には歌詞の字幕有り。そうしたことが,「特別な配慮」ではなく,当たり前に用意されていることにも,ちょっと感動。
最後の,学生代表の挨拶では,これまた必ずしも手話が上手い方だとも思っていなかった学生Oさんが,(おそらく前もって一生懸命練習して?)長い長い想い出話と教員や仲間への感謝等々のこもった挨拶を,手話付きでスピーチ。途中途中,何度もこみ上げてくる涙を堪えての挨拶に,学生みんな,そして私までウルウルきてしまいました。
謝恩会で学生みんなが泣き出してしまうのは,時々ある光景ですが,自分の涙腺も刺激されてしまったのは,14年間の大学教員生活で初めてだったかもしれません。
ちなみに,最後の挨拶が聾学生ではなかったのは,幹事の学生曰わく,「あいつがしゃべったら,当たり前すぎて面白くないし。(笑)」とのこと。つまりは,聾学生が「お客様」になってしまうのでもなく,はたまた,聾学生だから「あえて前に立つ」のでもない,そのさらに先に,すでに彼らの世界はたどり着いていたということなのでしょう(実際,当該聾学生は,一年生の時からPEPNetのシンポジウムなど,いろんな表舞台に立ってきた学生でしたし)。
そして二次会はカラオケ。みんなで手話付きで踊りまくっていたり,ファンモンの「あとひとつ」では,聾学生が前に立って手話で歌ってみんなが音声で合唱したり。最後は合唱曲の定番「旅立ちの時」を違和感なく聾学生も一緒に。こうしたことが,ごくごく普通に,いつものこととして繰り広げられていたわけで,彼らにとっては,しょっちゅう,こんな感じで,4年間,騒いできたんだなと納得。一般論的には手話コーラスに疑問を呈したりもしている私ですが,「まあ,これはこれで,ありかな」と思えたり。(^^ゞ
「あとひとつ」を聴くと,日本シリーズ最終戦でのまーくん登場の場面を思い出すのですが,これからは,この曲を聴く度に,あの日のカラオケ大合唱を思い浮かべてホロリときそうな気がします。
大学生活って,友達とケンカしたり,恋愛で振ったり振られたり,付き合ったり別れたり,時には真面目に将来のことで語り合ったり,熱くなって議論が白熱したり,そんなことの積み重ねだったりするもの。その,ごくごく「普通」の大学生活の中に,何ら「特別」さを感じさせることなく,聾学生も溶け込んでいたこと。さらに言えば,スライドショーでの写真の出演回数の多さから見ても,溶け込むどころか,輪の中心部分の一人でいたこと。この,「当たり前のこと」が総合大学という環境の中で実現できた。そんなことを,4年間の最後の1日に改めて確認できた。そんな君たちと一緒に過ごし,そして今日を迎えられたことで,一つの大切な仕事が節目を迎えた気がするよ。…と,そんなことを,最後に,研究室のゼミ生とで高崎のBarで語り合って,長い1日が終わりました。
情報保障は障害学生が授業を受けるための正当な権利の保障であり,これに応えることは大学としての最低限の責務。それを果たすことは美談でもなんでもなく,できて当たり前。でも,聾学生にとって本当に大切なことは,「この大学に入って良かった!」と思って卒業できることだと思うのです。それは,一生の宝物となる,仲間たちと出会えること。大学という場は,人の集合体ですから,人との繋がりの中にいられてこそ,「ここが自分の第二のふるさと」と思えるのではないでしょうか。
私にとっては、拙著『手話の社会学──教育現場への手話導入における当事者性をめぐって』を8月に上梓したばかりでもありましたから、研究と実践と,同時に節目を迎えた思いです。
さて,そんな群馬大学にも,今や,聾学校卒の聾学生が在学生に2人。さらに新入生にも,複数名入学予定。時代はさらに変わっていくのでしょうね。
今年の大きなできごとの3つめは,私が設立準備段階から関わり続けていた,日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan)に関することです。
PEPNet-Japanでは,毎年シンポジウムを開催しているのですが,第9回目になる今年のシンポジウムを,12月8日に群馬大学で開催することができました。
さらにその翌日の9日,なんとPEPNet-Japanが内閣総理大臣顕彰を授与されました。
私が群馬大学で聴覚障害学生支援に直接携わり始めたのは,教育学部障害児教育専攻に重度の聴覚障害学生の入学が決まった2003年から。
以後,群馬大学内で,聴覚障害学生の支援体制構築に奔走することになります。
その意味では,2003年以降の私の大学生活は,研究者としても,実践者としても,「聴覚障害学生支援」を抜きには考えられないものになっていきました。
本当に,考え得るあらゆる可能性を排除せずに進めてきた気がします。当初はたまたま巡ってきた仕事に過ぎなかった聴覚障害学生支援が,その後,自分の博士論文の主要な一部を構成することになり,そのおかげでなんとか博論が完成に至ったわけですから,人生,わからないものです。
一方,PEPNet-Japanが正式発足したのが,2004年10月の第1回日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク関係者会議。この設立に向けて,下準備的なところにも呼んでいただいて,関わらせていただいたわけですから,私にとっては,学内での支援体制作りとほぼ同時並行で,PEPNet-Japanとの関わりが進行していったことになります。
PEPNet-Japanで中心的に関わってきた事業は,支援体制構築マニュアル作りでした。これこそまさに,聴覚障害児教育を研究テーマとしつつも,会議の場での合意形成のされ方に注目した研究をしてきた私にとって,とても関心の深いテーマでしたし,自分の専門性が活かせるテーマでもありました。また,群大での支援体制構築の実践を進めながらでしたから,自分の実践をそのままPEPNet-Japanの事業に活かせる面白さもありました。そしてその逆もあり,PEPNet-Japanの事業で得た知識を活かして自分の実践をさらに良いものにしていくこともできました。
立ち上げ当初は,どちらかというと,「聴覚障害者支援に関する専門家集団」的な組織だったPEPNet-Japanも,時間の流れとともに少しずつ性格が変わってきている気がします。今は連携大学の代表者も,必ずしも聴覚障害が専門である人が集まっているわけでもありませんし,どちらかといえば,「聴覚障害学生支援を全学的・組織的に進めている大学の集合体」といった性格の組織へと変化していったように思います。
そして今年で第9回目を向かえたシンポジウム。参加者は年々増加し,今年は過去最高の400人越えでした。
シンポジウムでは,前日の群大見学ツアーと学生交流企画も含め,学生たちが頑張ってくれました。
群大の聴覚障害学生支援の特徴は,支援学生よりも聴覚障害学生の方が中心になり,ものごとを動かしていくところ。一言で言えば,「Deaf Centeredな大学だ」とのことです。特に私自身がそれを強く意識したわけではなかった気もしますが,整えた情報保障に甘んじることなく,その支援を最大限に活かして,「自分が何をすべきか?」を考えられる学生に育ってほしいと思って日々学生に関わってきたことが影響してきたのかもしれません。
障害学生支援は,そもそも憲法で保障されている学ぶ権利の保障ですから,キチンと必要なことは行って当然。そして「手厚い支援は学生への甘やかしにならないか?」という批判には,実践で応えていかなければなりません。つまり,必要な支援を受けつつ,自分がすべきことを自ら見いだし,切り開いて行く力を養うという実践で示していかなければなりません。
今回のシンポジウムも,まさにDeaf Centeredな様子がよく現れていたと思います。前日企画については,ほとんど私は口出しせずにいました。そしてシンポジウムを週末に控えた週は,連日夜遅くまで準備をしていたようです。「このシンポジウムをきっかけに,さらに聴覚障害学生同士の絆が深まった!」とも言ってくれました。そして本当に,このシンポジウムを通して学生が成長したと思います。
そして,毎年恒例となった実践事例コンテストでは,特に群大のそうした特徴が顕著に表れていました。
1年生と4年生の2人の聴覚障害学生が中心にプレゼンをし,聞こえる学生と音声の明瞭な難聴学生それぞれ1名ずつが読み取り通訳。そしてもう1人の聴覚障害学生が,手話のわからない聴覚障害学生に備えてブギーボード(電子筆談ボード)を片手に持ちつつ資料を配って呼び込み。
取り上げたテーマは,「教育実習」という,情報保障が最も困難なテーマ。そこで,聴覚障害学生自身が何を悩み,どうやって乗りきってきたのかを発表してくれました。
準備から当日まで,ギリギリまで悩み,相談し,そして実行していった甲斐もあり,発表の結果は最優秀賞であるPEPNet-Japan賞をいただくことができました。開催校ですから参加者の印象には残ったでしょうけれども,純粋に得票数で決まるものですから,学生たちには胸をはってほしいと思います。3年ぶり,2回目の最優秀賞受賞です。
おかげで,シンポジウムの有終の美を飾ることができました。
そして偶然にもシンポジウムの翌日,PEPNet-Japanが平成25年度バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰において,最高位の賞「内閣総理大臣表彰」を受賞しました。首相官邸にはPEPNet-Japan代表の,筑波技術大学学長の村上芳則先生と,PEPNetシンポ運営委員長の愛媛大学教授の高橋信雄先生が出席され,安倍晋三内閣総理大臣から直接賞を頂きました。
日本の聴覚障害学生支援は障害学生支援の牽引役を果たしてきたといっても過言ではありません。日本の障害学生支援をリードしてきたPEPNet-Japan。僅か数人で構想を練って立ち上げに至ってから10年。ここまで大きく成長するとは,立ち上げの当時,誰が想像し得たでしょうか。
実に,感慨深いものがあります。
私の聴覚障害学生支援に関する見識も実績も,PEPNet-Japanの成長とともに少しずつ積み上げてきました。
PEPNet-Japanなくしては,それこそ私の博士論文も完成し得なかったでしょう。
そのように考えると,この12月のシンポジウムと内閣総理大臣顕彰は,私にとっても,一年の締めを飾るのに相応しいイベントでした。
PEPNet-Japanを支えてくれた関係者の皆様に感謝!
共に築き上げてきた仲間に感謝!
そして今年一年間,関わりのあったすべての皆様に,心から御礼申し上げます。
ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
初の単著を,生活書院から上梓することができました。
『手話の社会学−教育現場への手話導入における当事者性を巡って−』です。
この本は,まさに学位授与されたばかりの博士論文を書籍化したものになります。
博士論文との大きな違いは,博士論文では序論に位置していた,方法論上の議論を「補章」として最後に持ってきたこと。
確かに,私がこの研究を進める上でネックになったのは,「教育実践研究はいかにして『科学』たり得るのか」という問題。
実践者は「現場感覚」に基づいて実践をしておられます。もちろんその中には,学術的な成果を参照しようとされる方もおられるでしょうけれども,そうでない場合もある。むしろ行動の規範の軸になるのは,「現場感覚」という主観的な感覚。
それをいかにして分析対象とするか,ということこそが,私が修士論文の時から挑戦してきた課題だったわけです。
その解は,「特殊教育学」という既存の学問分野には見いだせませんでしたから,やや大げさに言えば,特殊教育学への挑戦でもありました(実際に「挑戦」たり得ていたのかどうかはともかく,少なくとも自分の意識としては)。
とはいえ,私にオリジナルなものを生み出すだけの能力があるわけではありません。
社会学に解を求めました。
そして,社会問題論の構築主義アプローチにたどり着きました。
人が主観的に語るところの中身が真実かどうか。そんなことは調べようもない。しかし重要なことは,それが真実かどうかに関わらず,(社会)問題は人が語るところのものの連鎖によって構築される,ということ。
だとすれば,ある語りの真偽判断には意味がなく,その語りがどのような資源を動員して説得力を持たせ,そしてどのように積み上げられ,あるいは反論されて行くのかこそが分析の判断材料になる。
現場で応酬されながら空中戦で終わっているように見える,「手話・口話論争」を分析するには,この方法しかない!と思いました。
…そのようなわけで,博士論文執筆においては,この方法論上の検討は非常に重要な意味を持っていました。
しかしながら,出版社の勧めもあり,その小難しい議論が読者の躓きになってしまい,その先の本論にたどり着けないようでは,本末転倒なので,思い切って後ろに持っていきました。その上で,それで整合性がとれるよう,文章を整えました。
後は,僅か半年の時間差ではありますが,その間に障害者差別解消法が成立するなど,若干の世の中の変化もありましたから,加筆も必要になりました。
そして,「はじめに」を執筆しました(「後書き」は,博士論文の「謝辞」をほぼそのまま微修正)。
でも,基本的には,博士論文そのままです。
そしてタイトルは,あえて『手話の社会学』をメインタイトルとしました。
博士論文のタイトルが,「聾教育における手話の導入過程に関する一研究」ですから,ずいぶん違いますね…(笑)
ただ,さすがにこのままだとタイトルが大きすぎですから,副題として「教育現場への手話導入における当事者性を巡って」をつけ,テーマの核心が見えるようにしました。
本の「はじめに」でも書きましたが,本書は「手話の社会学」という名前から素直にイメージできそうな,「社会の中での手話のありよう」に焦点をあてたものではなく,「聾者の教育現場における手話の導入の是非を巡る意思決定のあり方」を明らかにすることに向けられています。
では,「看板に偽りあり」かというと,そんなことはないと思っています。これは,本書の執筆を終えてみて,確信していることです。
なぜか。聾者にとって,教育の場における手話の是非こそが,「聾者が聾者であること」の生命線だからです。
そしてそのことの本質的な意味に,他の誰よりも聾の方々ご自身に気づいていただきたいと思っていますし,さらには聾者に関わる聴者にも気づいていただきたいと思っています。
なぜならば,残念ながら,聾者が働きかけるだけでは聾者の主張は通らないという現実があり,聾者と関わる聴者がどのように動くかが重要な意味を持つからです。
そしてまさにこのことこそが,本書の結論の核心部分となったと言えます。
私の研究の問題関心は,「手話を導入すると効果があるのかどうか?」といった指導法そのものの是非ではありません。「日本手話派」の急先鋒であるかのように(ネット上で?)言われた時期もありましたが,私自身は口話法そのものの使用を否定したことは一度もありません。
私の関心は,「『手話を導入してほしい』と語る聾者の主張が,なぜ,どのようにして,聾教育の関係者の中で受け流されてきたのか?」ということです。
「現象には必ず理由がある」はず。この現象にも,何らかのメカニズムがあるのではないかと考え,その解明を目指してきました。
それとともかくまとめ上げたもの,それがこの「手話の社会学」ということになるかと思います。
さて,この「手話の社会学」ですが,企画は2003年頃からありました。生活書院が立ち上がった頃,社長さんに話を持ちかけまして,同意をいただいていました。
しかし,私の博士論文の完成がその後ズルズルと延びてしまい,自動的に,本の出版もズルズルと延びてしまいました。
生活書院の社長さんからは,毎年の年賀状で,「手話の社会学,今年こそ!」と発破をかけていただきました。
そして,毎年,お待たせしてしまいました。
ようやく,このようにして世に出すことができました。
ただ,これが渾身の自信作!とまで言い切る自信はありません。
むしろ博士論文の執筆は,自分の能力のなさを思い知らされた時間でもありましたから。
これも「はじめに」に書きましたが,それでもあえて本書で「手話の社会学」と銘打って世に出そうと思ったのは,「こんな研究でも世に著してよいのだ」と開き直ることで,次世代の若手研究者が,「このくらいなら」とばかりに本書を踏み台にしてより優れた研究を量産してくれることを期待する意味もあります。
その意味では,「手話の社会学」は,これから始まったところですし,みんなで作り上げていけたらいいなという思いです。
研究者を志して20年ほどになりましたが,今年は特に大きな節目となる1年でした。いろいろなことはありましたが,特に研究者としての大きなできごとを3点挙げたいと思います。
まずは,3月に博士号を授与されたこと。
そして,8月に博士論文をもとにした初の単著『手話の社会学−教育現場への手話導入における当事者性を巡って−』を上梓したこと。
あとはもう1つ,PEPNetシンポジウムを群馬大学で開催できたこと(合わせてその翌日にPEPNet-Japanが内閣総理大臣顕彰を授与されたことも)。
それぞれ順を追って,振り返ってみたいと思います。
まずは,博士号の学位授与。
博士論文は,以前は,文系については退職間際になって研究の集大成をまとめて提出するイメージが強かったものですが,今や,大学院博士課程(後期課程)に入り,順当に3年間学びと研究を重ねていれば授与される時代になりました。
しかしながら私の場合,幾度も提出のチャンスを失うことになり,結果的に,研究を始めてから20年近く時間を費やしてしまいました。
東京学芸大学の大学院修士課程から聾教育の手話導入をめぐる実践をテーマに研究をしようと志し,修士論文を執筆。現場の実践で交わされる「手話か口話か」の議論をテーマに研究をしようと考えるも,当時特殊教育分野ではそのような研究手法は見当たらず,他分野である社会学(特に構築主義)の手法を用いる形で書き上げました。そしてその修士論文を広げて博士論文とすべく,筑波大学博士課程に3年時編入学。
はたしてうまく行くのかどうか,どう転ぶかもわからない方法で修論に取り組むことを後押ししてくれた修士課程の指導教官には,本当に感謝の言葉が見つからないくらい,感謝しています。
そして,「手話」というテーマ的にも社会学という方法的にも,どこにも受け入れ先がない中,専門分野が異なるにもかかわらず,研究室に向かえてくださり,そして聴覚障害関係の研究者や実践者の方々とのパイプを繋げて下さった,博士課程の指導教官にも,同様に,心から感謝しています。
ところが諸事情から,1年で博士課程を中退することになります。単位取得退学ではなく,単なる中退ですから,これで「課程博士(課程博)」という,博士課程にいる学生として提出するという道がなくなりました。
しかし博士論文を提出するには,もう1つの道があります。博士課程に在学していなくても,博士論文のみを提出して,審査を通れば博士になれます。これを「論文博士(論博)」といいます。ただし,論文一発勝負なので,論文提出するための条件もありますし(学会誌に何本以上掲載している,とか),論文審査も厳しくなりますが。なんだか運転免許と似てますね。(笑)教習所に通わなくても免許は取れるけど,教習所に通うと実技試験が免除になるので,免許が取りやすい。
ともかく,この論博の道が残されていますから,博士論文を完成させることは諦めるわけにはいきませんでした。私の博士号取得には,祖父の願いも込められていたのです。
私の祖父は,天才的に優秀な人だったらしく,尋常小学校から高等小学校までの在学中,解けなかった問題は1問だけで,それは「中学校」向けの,習っていなかった問題だけだったそうな。さすがに「嘘でしょ」と思っていたのですが,大人になってから富山の祖父母の本家を訪ねていったら,親戚中から祖父にまつわる伝説的な話が出てくるわ出てくるわ。
…で,その祖父ですが,残念ながら家が裕福ではなく,進学も高等小学校までがやっとだったとのこと(それも,尋常小学校の担任の先生が,「この子をぜひ進学させてあげて下さい」と頼みに来た,という逸話もありで)。その後,戦争で住む場所もなくなり,夫婦と娘(つまり私の母)の3人で東京に出てきて,「ドカタ」をしながらお金を貯め,母を高校まで進学させるも,やはり本当はどこまでも本人の望むまま,「最終学歴」まで進学させてやりたい,という思いが残っていたようです。
その願いが,母を通し,孫の私に託されたおかげで,私はいつまでも親のスネをかじって学び続けることが許されたのでした。
博士課程を退学して技官になるという道は,当時の博士課程の学生の間では珍しいことではなく,むしろ進学よりもともかく大学に就職を優先することが大事だったところもあります。でも,祖父からすれば,なかなか理解に苦しむところで,「せっかく大学院まで行かせてやったのに,『博士』になれないのか…」という残念さが残っていたようです。
なので,「じーちゃん,でも論文を出せば博士になれるんだよ」と言って,なぐさめた(というか,ごまかした?)経緯がありました。
なにしろ明治生まれの人ですから,「末は博士か大臣か」と言われていた時代。
群馬大学の講師,助教授になった時も喜んではくれましたが,でも祖父にとってはそうした仕事上の肩書きよりも,「自分ができなかった分まで,孫をどこまでも勉強させてやれた」結果としての「博士号」を見たかったようです。
そんな祖父の願いもあり,母も常々「博士になって,おじいさんを喜ばせてあげなきゃね」と言っていましたから,意地でも博士論文の完成を諦めるわけにはいかなかったのです。
その後,筑波大で文部技官,助手を経て,群馬大学に講師として着任。
学生時代とは異なり,日々の仕事をしながら論文を書き進めることはなかなか難しく,はかどりませんでした。
そこにもう1度,チャンスが訪れました。
2003年,東大先端研に内地留学する機会を得ることができ,1年弱,研究に専念する時間をいただいたのです。
ここぞとばかりに頑張って論文をとりあえず書き上げました。
しかし,その時は博士課程在学中の指導教官はもはや別の大学に移られ,責任を持って論文を審査にかけてくれる人がいなくなっていました。博士課程在学中の指導教官も,実験心理学の手法で研究されている方でしたから,私とは方法は全く異なっていたわけですが,内容なり方法なりで,近接領域の先生がいれば事情は違っていたでしょう。
しかしながら,もとより私の選んだ内容も方法も,それまで特殊教育分野では扱っていた先生がいませんでしたから,頼れるツテをたどってみたものの,「誰も審査できる人がいませんので,審査自体が困難です」という返事でした。
ここでまた,道が閉ざされてしまいました…
しかし,捨てる神あれば拾う神あり,ではありませんが,新たな道が開けます。
学部の修士課程の時の指導教官に相談したところ,「学芸大でも論博の提出はできますから,諦めることはありませんよ」とのこと!(以後,ここでは「師」とします)
ただ,学芸大の論博は非常にハードルが高く,助教授になりたての私の業績では,まだまだ事前審査をクリアできない状況。師からは,「私が退職するまで,まだ時間はありますから,それまでに業績をしっかり積み上げて臨んでください」とのお言葉。
その日から,新たな挑戦が始まりました。
博士論文の本文を整えつつ,それぞれの章に該当する箇所を,すべて学会誌等に投稿し,根拠付けとなる業績作りを平行して進めました。
そしてようやくこれなら完成かと思えた2010年。
論文の主要な事例の2つのうちの1つになっている学校から,掲載を許可するわけにはいかない,との連絡が…
私が扱っていた事例は,1995年前後の,まさに日本の聾教育において幼稚部から全面的に手話を導入していく流れが作られ始めた時期。その時から,気がついたらすでに10年以上の歳月が過ぎていました。
もちろん,時間が経っても風化し得ない価値のある現象を見いだしたからこそ,論文として分析したいと思っていたわけですが,当該校の立場からすれば,今さら当時の話を蒸し返されても,無用な誤解を呼ぶだけなのかもしれません。
先方の決意も固いようでしたので,諦めざるを得ませんでした。
そしてそれは,いたずらにそれだけの長い時間をかけてしまった自分の責任でもありますし。
ともあれ,これによって,論文の根幹をなす事例が消えてしまいました。
もはや,無理かな…と諦め気分も入りました。
しかし,師に相談したところ,普段はとても厳しいお方なのですが,その時は実に優しい言葉かけをしてくださいました。
確かに大変だろうけれども,諦めなければ道は開けます。研究のデザインも大幅に見直さなければならないでしょうけれども,幼児期の手話導入というテーマを見直して,今までやってきた研究をうまく活かして形にまとめ上げることを考えたらいい。研究業績も,非常に難易度の高い学会誌を狙わなくとも,とにかくどこかに掲載していくことを第一に考えて投稿するとよい。
…と,そのような言葉かけをいただいたような気がします。
(*なお,そうは言われましたが,その後投稿した学会誌の難易度が実際に低いということではないです。個々の学会誌の名誉のためにも。)
まず,師の言葉を支えにしつつ,自分の研究業績を見直しました。
聾学校の幼児期における手話導入に関する議論をテーマに研究をしていた時期が2000年くらいまで。その後群馬大学に赴任してからは,聾重複に関する研究を継続的に進めていました。そして,2003年に聴覚障害学生支援に関わってからは,自分の研究の中心は聴覚障害学生支援。支援体制構築に関する研究と,支援技術に関する研究。これらの研究をすべて包含して,それなりに整合性のあるデザインに組み直す作業は,決して容易ではありませんでしたし,実際,ちょっと無理はありました。
師の退職は2012年度いっぱいですから,審査に1年かかることを考えると,残された時間は2年間。
2011年度は,これまでに出したことのないくらい,論文を投稿した気がします。たしか,6本ほど。
そして2011年の冬から,月に2回ほどのペースで論文指導を受けました。
大学教員になって10年以上経っていましたから,実に久しぶりでした。でも不思議なことに,何年経っても,師の前では学生時代に戻ったように,蛇に睨まれた蛙の如く,言葉が上手く返せなかったり…
目的と方法の一貫性をとにかく問われ,そして構成としておかしなところは章を新たに設けて執筆することになりました。
そのおかげで,最終的には,ともかく筋の通った形でひとまとまりの形にすることができました。
そして師から「これなら,わかります。私も責任を持って推せます。」と言われ,ゴーサインが出たのが,2012年4月。
そして5月に学内の業績審査を通過し,博論審査願を学芸大の博士課程係に申請したのが6月。
9月に博論提出の許可がおり,学芸大の博士課程係に博論を提出したのが10月。
審査委員の先生からのコメントを受けて修正をし,1月28日に発表会。あっと言う間に時間が過ぎました。どんな応答をしたのかも覚えていないくらい,とにかく緊張していました。
そして,2月26日。
たまたま仕事が早く終わり,いきつけのBarで一杯いただきながら,メールをチェックすると,博士課程係から,正式に学位取得が確定した旨の通知!
たまたま他にお客さんがいなかったこともあり,長い間,博士論文と格闘してきた私と見守り続けてくれたBarのマスターが,お祝いしてくれました。
そして3月15日,とうとう学位授与式。亡き祖父の形見のスーツ(サイズがピッタリ!)を着て,母と二人で臨みました。
連合大学院なので,学芸大,埼玉大,横浜国大,千葉大の4大学の学長先生が壇上に並びますから,なかなか壮観でした。それと対照的に,博士号のみの学位授与式だったので,小さな会場にポツンと椅子が数十脚。そのコントラストが,かえって価値の大きさを演出してくれた気がします。
博士号を授与され,母と一緒に真っ先に向かったのは,博士号授与を心待ちにしつつ,数年前に他界してしまった,亡き祖父母の墓前。
学位記を墓前に供え,やっと報告をすることができました。
できあがった博士論文は,「ともかくも全体をそれなりにまとめたもの」であって,とても完成度の高いものとは言えません。それは,自分の力のなさを思い知らされた経験でもありました。でも,「一人の研究者としてできることがいかに小さいか」を知り,それに比して,現象の解明がいかに困難であるのかを知り,ただただ謙虚になることを知ること,これこそが,「学位授与」ということの最大の成果だったのかなと思います。