アクセシビリティが届いている人の無自覚さ
本当に、久々に、ブログに書き込みをします。
駅のホームから降りてしまい、石を投げている方がいる。おそらく知的障害がある。
そしてそのお母さんが追いかけていき、なだめている。
そんな二人の様子を撮影した動画がSNSで拡散されています。
その二人のせいで、電車が遅れたのだ、と。
これに対しては、なんとなくの体感では、親子を擁護する意見の方が多い気もして、そこはホッとします。
でも、その逆もあって。やるせない気持ちになります。
乙武さんが、このことについてこちらに綴っています。
https://note.com/h_ototake/n/n01dadb8bae68
乙武さんの仰ること自体には、全面的に同感なのです。
ですが、ここはあえて、「簡単な話ではない」とか「答を出せない」といった語りに埋没させるべきではなく、むしろロジカルでシンプルな答を用意していかなければならないのではないかと思っています。
彼とそのお母さんが「迷惑」な存在とされてしまうのは、本来皆に必要なアクセシビリティが彼には届いていない設計だということ。
これに尽きるのではないか。
石川准先生が、「アクセシビリティが必要な人とそうでない人がいる、のではない。アクセシビリティがすでに十分届いている人と、まだ届いていない人がいるということなのだ」と仰っていました。
遠い席に座っていて「聞こえない」人には、マイクを使うことで事足りる。でも、それでは足りない人もいて、字幕が必要だったりする。それでも足りない人もいて、手話通訳が必要な人もいる。
まさにそういうことで。
エスカレータ前で、オロオロしているおばあちゃんがいたりします。
(私の死んだばーちゃんも、速いエスカレータが苦手で、エスカレータの前で立ち往生してました。)
でもそれはばーちゃんが悪いのではなくて、元気な大人の人の基準で速さを設定しているから起きることなわけです。
今回の件も、本質的にはそういう問題だと考えるべきだと私は思います。
あの駅にホームドアが整備されてたら、ホームに飛び出すことは起きなかったのではないでしょうか。
そのホームドアは、誰のためでしょうか?
ペロンペロンの酔っ払いが、ホームに転落することが、残念ながら、時々あります。
駅員さんは大変な目に遭います。電車を利用する人たち全体にも影響は及びます。
酔っ払いだけじゃなくて、そもそも考えてみれば、駅のホームって、メチャメチャ危ない場所ですよね。
朝のラッシュ時なんて、ひしめき合っている状況で。そこで後ろから押されたら?ちょっと肩だけはみ出ただけでも、高速で走る電車にぶつかったら、重大な事故です。
そもそも電車のホームは、希に起こる事象が引き起こす損害の大きさがハンパない、特殊な空間なわけですよ。
その損害のリスクを回避するための社会の基礎的環境整備が足りていないということ。
みんなのために必要なホームドアの設置がなされていないがために、より多くのアクセシビリティが必要な人が、「迷惑な人」扱いされてしまうということなのだと考えるべきではないかと思います。
さて、多くの人は、「眼鏡」の恩恵を受けています。その人が視覚認知に困らず生活できるのは、努力とは無関係で、眼鏡という社会資源の恩恵。
エスカレータがあって楽に上に上がれるのも、エスカレーターという社会資源の恩恵。
でも、その社会資源でOKな人もいれば、もうひとこえ必要な人もいるわけです。
眼鏡をかけている人(私もです)。エスカレーター便利さを無自覚に享受している人。
そうした恩恵を無自覚に利用していながら、それでは足りなくて、プラスαのインフラが必要な人のことを、「あいつのせいで迷惑」と言ってしまう現実があります。まずはそこのおかしさに気づかないといけない。
そんな私も、今、パソコン使って、楽に文章を書いています。
めいっぱい、すでにあるアクセシビリティの恩恵は受けています。
だからこそ、この親子に「迷惑だ」と平気で言える人に、申し上げたい。
「おまいう?」(おまえが言うか!)と。
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