引用文献は「読みたい論文」を!
近年,論文検索システムが充実してきたことに加え,フリーダウンロードできる学術論文が増えてきました。
私が大学生,大学院生だった頃,図書館に籠もり,1つ1つ手作業で先行研究を調べ,そして1つ1つコピーをしていたのが,嘘のようです。
もちろん,これ自体は喜ばしいこと。
私自身,今はこの恩恵にあずかっています。
ただその一方で,問題がないわけでもありません。
フリーダウンロードできる論文の多くが大学紀要であるということです。
会費によって運営される学会誌の場合,無料配布というわけにはいかないという事情もあるのでしょう。
そうなると,困った逆転現象が起きます。
厳しい査読を経た学会誌の方が,いちいち複写依頼をしたり,あるいは現物を取り寄せたりしなければならないので,面倒になります。
一方,手っ取り早く読める紀要論文は,査読がありません。
すると,学生たちは,卒論,修論に取り組むのにあたり,自分の関連するテーマの論文検索をかけ,ヒットしたもののうち,手っ取り早く読めるフリーダウンロードできる論文だけを集めて,引用文献を整えてしまいます。
本来,先行研究というのは,手に入りやすいかどうかで取捨選択すべきものではないはず。
自分の研究に密接に関連するならば,たとえ入手困難でも,そして日本語でなくとも,意地でも手に入れなければなりません。
なぜなら,論文というのは,オリジナリティが求められるから。
自分の研究がオリジナルであることを主張するためにも,先人たちの血と汗と涙の結晶である「先行研究」に敬意を表し,その成果を踏まえて,一歩先に進ませてもらうことが大事になります。
すなわち,「入手の容易さ」ではなく,「読みたい論文」を手に入れなければならないはず。
ところが,あまりに容易に,そしてそこそこの数のフリーダウンロードできる論文が増えてしまったために,「読みたい論文」よりも,「読める(手に入る)論文」を収集して済ませてしまうという逆転現象が生じてしまう。
それはとても残念なことです。
執筆した側からしても,苦労して査読をくぐり抜けた「渾身の一作」よりも,「やっつけ仕事」的な論文が多く読まれてしまう。これは研究者として残念。
また,学生がそのようなクセを身につけてしまうと,良質の論文に触れ,論文の質を見極めるトレーニングを積む機会が失われてしまう。これは研究者養成として残念。
そんなこともあり,ここ数年,学生の卒論指導や院生の授業では,あえて「フリーダウンロードできる紀要論文ではなく,査読のある学会誌を選び,発表して下さい」と条件をつけています。
もちろん,紀要論文でも秀作はありますし,学会誌が良いものとは限らないんですけどね。
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