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2013年12月30日 (月)

「PEPNet-Japan」シンポ群大で開催,そして内閣総理大臣顕彰! …2013年の大きなできごと その3

今年の大きなできごとの3つめは,私が設立準備段階から関わり続けていた,日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan)に関することです。

PEPNet-Japanでは,毎年シンポジウムを開催しているのですが,第9回目になる今年のシンポジウムを,128日に群馬大学で開催することができました。

さらにその翌日の9日,なんとPEPNet-Japanが内閣総理大臣顕彰を授与されました。

 

私が群馬大学で聴覚障害学生支援に直接携わり始めたのは,教育学部障害児教育専攻に重度の聴覚障害学生の入学が決まった2003年から。

以後,群馬大学内で,聴覚障害学生の支援体制構築に奔走することになります。

その意味では,2003年以降の私の大学生活は,研究者としても,実践者としても,「聴覚障害学生支援」を抜きには考えられないものになっていきました。

本当に,考え得るあらゆる可能性を排除せずに進めてきた気がします。当初はたまたま巡ってきた仕事に過ぎなかった聴覚障害学生支援が,その後,自分の博士論文の主要な一部を構成することになり,そのおかげでなんとか博論が完成に至ったわけですから,人生,わからないものです。

一方,PEPNet-Japanが正式発足したのが,200410月の第1回日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク関係者会議。この設立に向けて,下準備的なところにも呼んでいただいて,関わらせていただいたわけですから,私にとっては,学内での支援体制作りとほぼ同時並行で,PEPNet-Japanとの関わりが進行していったことになります。

PEPNet-Japanで中心的に関わってきた事業は,支援体制構築マニュアル作りでした。これこそまさに,聴覚障害児教育を研究テーマとしつつも,会議の場での合意形成のされ方に注目した研究をしてきた私にとって,とても関心の深いテーマでしたし,自分の専門性が活かせるテーマでもありました。また,群大での支援体制構築の実践を進めながらでしたから,自分の実践をそのままPEPNet-Japanの事業に活かせる面白さもありました。そしてその逆もあり,PEPNet-Japanの事業で得た知識を活かして自分の実践をさらに良いものにしていくこともできました。

 

立ち上げ当初は,どちらかというと,「聴覚障害者支援に関する専門家集団」的な組織だったPEPNet-Japanも,時間の流れとともに少しずつ性格が変わってきている気がします。今は連携大学の代表者も,必ずしも聴覚障害が専門である人が集まっているわけでもありませんし,どちらかといえば,「聴覚障害学生支援を全学的・組織的に進めている大学の集合体」といった性格の組織へと変化していったように思います。

 

そして今年で第9回目を向かえたシンポジウム。参加者は年々増加し,今年は過去最高の400人越えでした。

シンポジウムでは,前日の群大見学ツアーと学生交流企画も含め,学生たちが頑張ってくれました。

群大の聴覚障害学生支援の特徴は,支援学生よりも聴覚障害学生の方が中心になり,ものごとを動かしていくところ。一言で言えば,「Deaf Centeredな大学だ」とのことです。特に私自身がそれを強く意識したわけではなかった気もしますが,整えた情報保障に甘んじることなく,その支援を最大限に活かして,「自分が何をすべきか?」を考えられる学生に育ってほしいと思って日々学生に関わってきたことが影響してきたのかもしれません。

障害学生支援は,そもそも憲法で保障されている学ぶ権利の保障ですから,キチンと必要なことは行って当然。そして「手厚い支援は学生への甘やかしにならないか?」という批判には,実践で応えていかなければなりません。つまり,必要な支援を受けつつ,自分がすべきことを自ら見いだし,切り開いて行く力を養うという実践で示していかなければなりません。

 

今回のシンポジウムも,まさにDeaf Centeredな様子がよく現れていたと思います。前日企画については,ほとんど私は口出しせずにいました。そしてシンポジウムを週末に控えた週は,連日夜遅くまで準備をしていたようです。「このシンポジウムをきっかけに,さらに聴覚障害学生同士の絆が深まった!」とも言ってくれました。そして本当に,このシンポジウムを通して学生が成長したと思います。

そして,毎年恒例となった実践事例コンテストでは,特に群大のそうした特徴が顕著に表れていました。

1年生と4年生の2人の聴覚障害学生が中心にプレゼンをし,聞こえる学生と音声の明瞭な難聴学生それぞれ1名ずつが読み取り通訳。そしてもう1人の聴覚障害学生が,手話のわからない聴覚障害学生に備えてブギーボード(電子筆談ボード)を片手に持ちつつ資料を配って呼び込み。

取り上げたテーマは,「教育実習」という,情報保障が最も困難なテーマ。そこで,聴覚障害学生自身が何を悩み,どうやって乗りきってきたのかを発表してくれました。

準備から当日まで,ギリギリまで悩み,相談し,そして実行していった甲斐もあり,発表の結果は最優秀賞であるPEPNet-Japanをいただくことができました。開催校ですから参加者の印象には残ったでしょうけれども,純粋に得票数で決まるものですから,学生たちには胸をはってほしいと思います。3年ぶり,2回目の最優秀賞受賞です。

おかげで,シンポジウムの有終の美を飾ることができました。

 

そして偶然にもシンポジウムの翌日,PEPNet-Japanが平成25年度バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰において,最高位の賞「内閣総理大臣表彰」を受賞しました。首相官邸にはPEPNet-Japan代表の,筑波技術大学学長の村上芳則先生と,PEPNetシンポ運営委員長の愛媛大学教授の高橋信雄先生が出席され,安倍晋三内閣総理大臣から直接賞を頂きました。

日本の聴覚障害学生支援は障害学生支援の牽引役を果たしてきたといっても過言ではありません。日本の障害学生支援をリードしてきたPEPNet-Japan。僅か数人で構想を練って立ち上げに至ってから10年。ここまで大きく成長するとは,立ち上げの当時,誰が想像し得たでしょうか。

実に,感慨深いものがあります。

 

私の聴覚障害学生支援に関する見識も実績も,PEPNet-Japanの成長とともに少しずつ積み上げてきました。

PEPNet-Japanなくしては,それこそ私の博士論文も完成し得なかったでしょう。

そのように考えると,この12月のシンポジウムと内閣総理大臣顕彰は,私にとっても,一年の締めを飾るのに相応しいイベントでした。

 

PEPNet-Japanを支えてくれた関係者の皆様に感謝!

共に築き上げてきた仲間に感謝!

 

そして今年一年間,関わりのあったすべての皆様に,心から御礼申し上げます。

ありがとうございました。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2013年12月28日 (土)

単著『手話の社会学』刊行! …2013年の大きなできごと その2

Img_1673 今年の大きなできごと,その2。

初の単著を,生活書院から上梓することができました。

『手話の社会学−教育現場への手話導入における当事者性を巡って−』です。

 

この本は,まさに学位授与されたばかりの博士論文を書籍化したものになります。

博士論文との大きな違いは,博士論文では序論に位置していた,方法論上の議論を「補章」として最後に持ってきたこと。

確かに,私がこの研究を進める上でネックになったのは,「教育実践研究はいかにして『科学』たり得るのか」という問題。

実践者は「現場感覚」に基づいて実践をしておられます。もちろんその中には,学術的な成果を参照しようとされる方もおられるでしょうけれども,そうでない場合もある。むしろ行動の規範の軸になるのは,「現場感覚」という主観的な感覚。

それをいかにして分析対象とするか,ということこそが,私が修士論文の時から挑戦してきた課題だったわけです。

その解は,「特殊教育学」という既存の学問分野には見いだせませんでしたから,やや大げさに言えば,特殊教育学への挑戦でもありました(実際に「挑戦」たり得ていたのかどうかはともかく,少なくとも自分の意識としては)。

とはいえ,私にオリジナルなものを生み出すだけの能力があるわけではありません。

社会学に解を求めました。

そして,社会問題論の構築主義アプローチにたどり着きました。

人が主観的に語るところの中身が真実かどうか。そんなことは調べようもない。しかし重要なことは,それが真実かどうかに関わらず,(社会)問題は人が語るところのものの連鎖によって構築される,ということ。

だとすれば,ある語りの真偽判断には意味がなく,その語りがどのような資源を動員して説得力を持たせ,そしてどのように積み上げられ,あるいは反論されて行くのかこそが分析の判断材料になる。

現場で応酬されながら空中戦で終わっているように見える,「手話・口話論争」を分析するには,この方法しかない!と思いました。

…そのようなわけで,博士論文執筆においては,この方法論上の検討は非常に重要な意味を持っていました。

しかしながら,出版社の勧めもあり,その小難しい議論が読者の躓きになってしまい,その先の本論にたどり着けないようでは,本末転倒なので,思い切って後ろに持っていきました。その上で,それで整合性がとれるよう,文章を整えました。

後は,僅か半年の時間差ではありますが,その間に障害者差別解消法が成立するなど,若干の世の中の変化もありましたから,加筆も必要になりました。

そして,「はじめに」を執筆しました(「後書き」は,博士論文の「謝辞」をほぼそのまま微修正)。

でも,基本的には,博士論文そのままです。

 

そしてタイトルは,あえて『手話の社会学』をメインタイトルとしました。

博士論文のタイトルが,「聾教育における手話の導入過程に関する一研究」ですから,ずいぶん違いますね…(笑)

ただ,さすがにこのままだとタイトルが大きすぎですから,副題として「教育現場への手話導入における当事者性を巡って」をつけ,テーマの核心が見えるようにしました。

本の「はじめに」でも書きましたが,本書は「手話の社会学」という名前から素直にイメージできそうな,「社会の中での手話のありよう」に焦点をあてたものではなく,「聾者の教育現場における手話の導入の是非を巡る意思決定のあり方」を明らかにすることに向けられています。

では,「看板に偽りあり」かというと,そんなことはないと思っています。これは,本書の執筆を終えてみて,確信していることです。

なぜか。聾者にとって,教育の場における手話の是非こそが,「聾者が聾者であること」の生命線だからです。

そしてそのことの本質的な意味に,他の誰よりも聾の方々ご自身に気づいていただきたいと思っていますし,さらには聾者に関わる聴者にも気づいていただきたいと思っています。

なぜならば,残念ながら,聾者が働きかけるだけでは聾者の主張は通らないという現実があり,聾者と関わる聴者がどのように動くかが重要な意味を持つからです。

そしてまさにこのことこそが,本書の結論の核心部分となったと言えます。

私の研究の問題関心は,「手話を導入すると効果があるのかどうか?」といった指導法そのものの是非ではありません。「日本手話派」の急先鋒であるかのように(ネット上で?)言われた時期もありましたが,私自身は口話法そのものの使用を否定したことは一度もありません。

私の関心は,「『手話を導入してほしい』と語る聾者の主張が,なぜ,どのようにして,聾教育の関係者の中で受け流されてきたのか?」ということです。

「現象には必ず理由がある」はず。この現象にも,何らかのメカニズムがあるのではないかと考え,その解明を目指してきました。

それとともかくまとめ上げたもの,それがこの「手話の社会学」ということになるかと思います。

 

さて,この「手話の社会学」ですが,企画は2003年頃からありました。生活書院が立ち上がった頃,社長さんに話を持ちかけまして,同意をいただいていました。

しかし,私の博士論文の完成がその後ズルズルと延びてしまい,自動的に,本の出版もズルズルと延びてしまいました。

生活書院の社長さんからは,毎年の年賀状で,「手話の社会学,今年こそ!」と発破をかけていただきました。

そして,毎年,お待たせしてしまいました。

 

ようやく,このようにして世に出すことができました。

ただ,これが渾身の自信作!とまで言い切る自信はありません。

むしろ博士論文の執筆は,自分の能力のなさを思い知らされた時間でもありましたから。

これも「はじめに」に書きましたが,それでもあえて本書で「手話の社会学」と銘打って世に出そうと思ったのは,「こんな研究でも世に著してよいのだ」と開き直ることで,次世代の若手研究者が,「このくらいなら」とばかりに本書を踏み台にしてより優れた研究を量産してくれることを期待する意味もあります。

 

 その意味では,「手話の社会学」は,これから始まったところですし,みんなで作り上げていけたらいいなという思いです。

博士号,授与! …2013年の大きなできごと その1

研究者を志して20年ほどになりましたが,今年は特に大きな節目となる1年でした。いろいろなことはありましたが,特に研究者としての大きなできごとを3点挙げたいと思います。

まずは,3月に博士号を授与されたこと。

そして,8月に博士論文をもとにした初の単著『手話の社会学−教育現場への手話導入における当事者性を巡って−』を上梓したこと。

あとはもう1つ,PEPNetシンポジウムを群馬大学で開催できたこと(合わせてその翌日にPEPNet-Japanが内閣総理大臣顕彰を授与されたことも)。

それぞれ順を追って,振り返ってみたいと思います。

 

まずは,博士号の学位授与。

博士論文は,以前は,文系については退職間際になって研究の集大成をまとめて提出するイメージが強かったものですが,今や,大学院博士課程(後期課程)に入り,順当に3年間学びと研究を重ねていれば授与される時代になりました。

 しかしながら私の場合,幾度も提出のチャンスを失うことになり,結果的に,研究を始めてから20年近く時間を費やしてしまいました。

 

東京学芸大学の大学院修士課程から聾教育の手話導入をめぐる実践をテーマに研究をしようと志し,修士論文を執筆。現場の実践で交わされる「手話か口話か」の議論をテーマに研究をしようと考えるも,当時特殊教育分野ではそのような研究手法は見当たらず,他分野である社会学(特に構築主義)の手法を用いる形で書き上げました。そしてその修士論文を広げて博士論文とすべく,筑波大学博士課程に3年時編入学。

 はたしてうまく行くのかどうか,どう転ぶかもわからない方法で修論に取り組むことを後押ししてくれた修士課程の指導教官には,本当に感謝の言葉が見つからないくらい,感謝しています。

 そして,「手話」というテーマ的にも社会学という方法的にも,どこにも受け入れ先がない中,専門分野が異なるにもかかわらず,研究室に向かえてくださり,そして聴覚障害関係の研究者や実践者の方々とのパイプを繋げて下さった,博士課程の指導教官にも,同様に,心から感謝しています。


ところが諸事情から,1年で博士課程を中退することになります。単位取得退学ではなく,単なる中退ですから,これで「課程博士(課程博)」という,博士課程にいる学生として提出するという道がなくなりました。


しかし博士論文を提出するには,もう1つの道があります。博士課程に在学していなくても,博士論文のみを提出して,審査を通れば博士になれます。これを「論文博士(論博)」といいます。ただし,論文一発勝負なので,論文提出するための条件もありますし(学会誌に何本以上掲載している,とか),論文審査も厳しくなりますが。なんだか運転免許と似てますね。(笑)教習所に通わなくても免許は取れるけど,教習所に通うと実技試験が免除になるので,免許が取りやすい。

ともかく,この論博の道が残されていますから,博士論文を完成させることは諦めるわけにはいきませんでした。私の博士号取得には,祖父の願いも込められていたのです。

私の祖父は,天才的に優秀な人だったらしく,尋常小学校から高等小学校までの在学中,解けなかった問題は1問だけで,それは「中学校」向けの,習っていなかった問題だけだったそうな。さすがに「嘘でしょ」と思っていたのですが,大人になってから富山の祖父母の本家を訪ねていったら,親戚中から祖父にまつわる伝説的な話が出てくるわ出てくるわ。

…で,その祖父ですが,残念ながら家が裕福ではなく,進学も高等小学校までがやっとだったとのこと(それも,尋常小学校の担任の先生が,「この子をぜひ進学させてあげて下さい」と頼みに来た,という逸話もありで)。その後,戦争で住む場所もなくなり,夫婦と娘(つまり私の母)の3人で東京に出てきて,「ドカタ」をしながらお金を貯め,母を高校まで進学させるも,やはり本当はどこまでも本人の望むまま,「最終学歴」まで進学させてやりたい,という思いが残っていたようです。

その願いが,母を通し,孫の私に託されたおかげで,私はいつまでも親のスネをかじって学び続けることが許されたのでした。

博士課程を退学して技官になるという道は,当時の博士課程の学生の間では珍しいことではなく,むしろ進学よりもともかく大学に就職を優先することが大事だったところもあります。でも,祖父からすれば,なかなか理解に苦しむところで,「せっかく大学院まで行かせてやったのに,『博士』になれないのか…」という残念さが残っていたようです。

なので,「じーちゃん,でも論文を出せば博士になれるんだよ」と言って,なぐさめた(というか,ごまかした?)経緯がありました。

なにしろ明治生まれの人ですから,「末は博士か大臣か」と言われていた時代。

群馬大学の講師,助教授になった時も喜んではくれましたが,でも祖父にとってはそうした仕事上の肩書きよりも,「自分ができなかった分まで,孫をどこまでも勉強させてやれた」結果としての「博士号」を見たかったようです。

そんな祖父の願いもあり,母も常々「博士になって,おじいさんを喜ばせてあげなきゃね」と言っていましたから,意地でも博士論文の完成を諦めるわけにはいかなかったのです。


その後,筑波大で文部技官,助手を経て,群馬大学に講師として着任。

学生時代とは異なり,日々の仕事をしながら論文を書き進めることはなかなか難しく,はかどりませんでした。


そこにもう1度,チャンスが訪れました。

2003年,東大先端研に内地留学する機会を得ることができ,1年弱,研究に専念する時間をいただいたのです。

ここぞとばかりに頑張って論文をとりあえず書き上げました。

しかし,その時は博士課程在学中の指導教官はもはや別の大学に移られ,責任を持って論文を審査にかけてくれる人がいなくなっていました。博士課程在学中の指導教官も,実験心理学の手法で研究されている方でしたから,私とは方法は全く異なっていたわけですが,内容なり方法なりで,近接領域の先生がいれば事情は違っていたでしょう。

しかしながら,もとより私の選んだ内容も方法も,それまで特殊教育分野では扱っていた先生がいませんでしたから,頼れるツテをたどってみたものの,「誰も審査できる人がいませんので,審査自体が困難です」という返事でした。

ここでまた,道が閉ざされてしまいました…


しかし,捨てる神あれば拾う神あり,ではありませんが,新たな道が開けます。

学部の修士課程の時の指導教官に相談したところ,「学芸大でも論博の提出はできますから,諦めることはありませんよ」とのこと!(以後,ここでは「師」とします)


ただ,学芸大の論博は非常にハードルが高く,助教授になりたての私の業績では,まだまだ事前審査をクリアできない状況。師からは,「私が退職するまで,まだ時間はありますから,それまでに業績をしっかり積み上げて臨んでください」とのお言葉。


その日から,新たな挑戦が始まりました。

 博士論文の本文を整えつつ,それぞれの章に該当する箇所を,すべて学会誌等に投稿し,根拠付けとなる業績作りを平行して進めました。


そしてようやくこれなら完成かと思えた2010年。

 

論文の主要な事例の2つのうちの1つになっている学校から,掲載を許可するわけにはいかない,との連絡が…

私が扱っていた事例は,1995年前後の,まさに日本の聾教育において幼稚部から全面的に手話を導入していく流れが作られ始めた時期。その時から,気がついたらすでに10年以上の歳月が過ぎていました。

もちろん,時間が経っても風化し得ない価値のある現象を見いだしたからこそ,論文として分析したいと思っていたわけですが,当該校の立場からすれば,今さら当時の話を蒸し返されても,無用な誤解を呼ぶだけなのかもしれません。

先方の決意も固いようでしたので,諦めざるを得ませんでした。

そしてそれは,いたずらにそれだけの長い時間をかけてしまった自分の責任でもありますし。


ともあれ,これによって,論文の根幹をなす事例が消えてしまいました。

もはや,無理かな…と諦め気分も入りました。


しかし,師に相談したところ,普段はとても厳しいお方なのですが,その時は実に優しい言葉かけをしてくださいました。

確かに大変だろうけれども,諦めなければ道は開けます。研究のデザインも大幅に見直さなければならないでしょうけれども,幼児期の手話導入というテーマを見直して,今までやってきた研究をうまく活かして形にまとめ上げることを考えたらいい。研究業績も,非常に難易度の高い学会誌を狙わなくとも,とにかくどこかに掲載していくことを第一に考えて投稿するとよい。

…と,そのような言葉かけをいただいたような気がします。

(*なお,そうは言われましたが,その後投稿した学会誌の難易度が実際に低いということではないです。個々の学会誌の名誉のためにも。)

まず,師の言葉を支えにしつつ,自分の研究業績を見直しました。


聾学校の幼児期における手話導入に関する議論をテーマに研究をしていた時期が2000年くらいまで。その後群馬大学に赴任してからは,聾重複に関する研究を継続的に進めていました。そして,2003年に聴覚障害学生支援に関わってからは,自分の研究の中心は聴覚障害学生支援。支援体制構築に関する研究と,支援技術に関する研究。これらの研究をすべて包含して,それなりに整合性のあるデザインに組み直す作業は,決して容易ではありませんでしたし,実際,ちょっと無理はありました。


師の退職は2012年度いっぱいですから,審査に1年かかることを考えると,残された時間は2年間。

2011年度は,これまでに出したことのないくらい,論文を投稿した気がします。たしか,6本ほど。

そして2011年の冬から,月に2回ほどのペースで論文指導を受けました。

大学教員になって10年以上経っていましたから,実に久しぶりでした。でも不思議なことに,何年経っても,師の前では学生時代に戻ったように,蛇に睨まれた蛙の如く,言葉が上手く返せなかったり…

目的と方法の一貫性をとにかく問われ,そして構成としておかしなところは章を新たに設けて執筆することになりました。

そのおかげで,最終的には,ともかく筋の通った形でひとまとまりの形にすることができました。

そして師から「これなら,わかります。私も責任を持って推せます。」と言われ,ゴーサインが出たのが,2012年4月。

そして5月に学内の業績審査を通過し,博論審査願を学芸大の博士課程係に申請したのが6月。

9月に博論提出の許可がおり,学芸大の博士課程係に博論を提出したのが10月。

審査委員の先生からのコメントを受けて修正をし,1月28日に発表会。あっと言う間に時間が過ぎました。どんな応答をしたのかも覚えていないくらい,とにかく緊張していました。


そして,2月26日。

たまたま仕事が早く終わり,いきつけのBarで一杯いただきながら,メールをチェックすると,博士課程係から,正式に学位取得が確定した旨の通知!

 たまたま他にお客さんがいなかったこともあり,長い間,博士論文と格闘してきた私と見守り続けてくれたBarのマスターが,お祝いしてくれました。


そして3月15日,とうとう学位授与式。亡き祖父の形見のスーツ(サイズがピッタリ!)を着て,母と二人で臨みました。

連合大学院なので,学芸大,埼玉大,横浜国大,千葉大の4大学の学長先生が壇上に並びますから,なかなか壮観でした。それと対照的に,博士号のみの学位授与式だったので,小さな会場にポツンと椅子が数十脚。そのコントラストが,かえって価値の大きさを演出してくれた気がします。

博士号を授与され,母と一緒に真っ先に向かったのは,博士号授与を心待ちにしつつ,数年前に他界してしまった,亡き祖父母の墓前。

学位記を墓前に供え,やっと報告をすることができました。


できあがった博士論文は,「ともかくも全体をそれなりにまとめたもの」であって,とても完成度の高いものとは言えません。それは,自分の力のなさを思い知らされた経験でもありました。でも,「一人の研究者としてできることがいかに小さいか」を知り,それに比して,現象の解明がいかに困難であるのかを知り,ただただ謙虚になることを知ること,これこそが,「学位授与」ということの最大の成果だったのかなと思います。

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