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2013年12月28日 (土)

博士号,授与! …2013年の大きなできごと その1

研究者を志して20年ほどになりましたが,今年は特に大きな節目となる1年でした。いろいろなことはありましたが,特に研究者としての大きなできごとを3点挙げたいと思います。

まずは,3月に博士号を授与されたこと。

そして,8月に博士論文をもとにした初の単著『手話の社会学−教育現場への手話導入における当事者性を巡って−』を上梓したこと。

あとはもう1つ,PEPNetシンポジウムを群馬大学で開催できたこと(合わせてその翌日にPEPNet-Japanが内閣総理大臣顕彰を授与されたことも)。

それぞれ順を追って,振り返ってみたいと思います。

 

まずは,博士号の学位授与。

博士論文は,以前は,文系については退職間際になって研究の集大成をまとめて提出するイメージが強かったものですが,今や,大学院博士課程(後期課程)に入り,順当に3年間学びと研究を重ねていれば授与される時代になりました。

 しかしながら私の場合,幾度も提出のチャンスを失うことになり,結果的に,研究を始めてから20年近く時間を費やしてしまいました。

 

東京学芸大学の大学院修士課程から聾教育の手話導入をめぐる実践をテーマに研究をしようと志し,修士論文を執筆。現場の実践で交わされる「手話か口話か」の議論をテーマに研究をしようと考えるも,当時特殊教育分野ではそのような研究手法は見当たらず,他分野である社会学(特に構築主義)の手法を用いる形で書き上げました。そしてその修士論文を広げて博士論文とすべく,筑波大学博士課程に3年時編入学。

 はたしてうまく行くのかどうか,どう転ぶかもわからない方法で修論に取り組むことを後押ししてくれた修士課程の指導教官には,本当に感謝の言葉が見つからないくらい,感謝しています。

 そして,「手話」というテーマ的にも社会学という方法的にも,どこにも受け入れ先がない中,専門分野が異なるにもかかわらず,研究室に向かえてくださり,そして聴覚障害関係の研究者や実践者の方々とのパイプを繋げて下さった,博士課程の指導教官にも,同様に,心から感謝しています。


ところが諸事情から,1年で博士課程を中退することになります。単位取得退学ではなく,単なる中退ですから,これで「課程博士(課程博)」という,博士課程にいる学生として提出するという道がなくなりました。


しかし博士論文を提出するには,もう1つの道があります。博士課程に在学していなくても,博士論文のみを提出して,審査を通れば博士になれます。これを「論文博士(論博)」といいます。ただし,論文一発勝負なので,論文提出するための条件もありますし(学会誌に何本以上掲載している,とか),論文審査も厳しくなりますが。なんだか運転免許と似てますね。(笑)教習所に通わなくても免許は取れるけど,教習所に通うと実技試験が免除になるので,免許が取りやすい。

ともかく,この論博の道が残されていますから,博士論文を完成させることは諦めるわけにはいきませんでした。私の博士号取得には,祖父の願いも込められていたのです。

私の祖父は,天才的に優秀な人だったらしく,尋常小学校から高等小学校までの在学中,解けなかった問題は1問だけで,それは「中学校」向けの,習っていなかった問題だけだったそうな。さすがに「嘘でしょ」と思っていたのですが,大人になってから富山の祖父母の本家を訪ねていったら,親戚中から祖父にまつわる伝説的な話が出てくるわ出てくるわ。

…で,その祖父ですが,残念ながら家が裕福ではなく,進学も高等小学校までがやっとだったとのこと(それも,尋常小学校の担任の先生が,「この子をぜひ進学させてあげて下さい」と頼みに来た,という逸話もありで)。その後,戦争で住む場所もなくなり,夫婦と娘(つまり私の母)の3人で東京に出てきて,「ドカタ」をしながらお金を貯め,母を高校まで進学させるも,やはり本当はどこまでも本人の望むまま,「最終学歴」まで進学させてやりたい,という思いが残っていたようです。

その願いが,母を通し,孫の私に託されたおかげで,私はいつまでも親のスネをかじって学び続けることが許されたのでした。

博士課程を退学して技官になるという道は,当時の博士課程の学生の間では珍しいことではなく,むしろ進学よりもともかく大学に就職を優先することが大事だったところもあります。でも,祖父からすれば,なかなか理解に苦しむところで,「せっかく大学院まで行かせてやったのに,『博士』になれないのか…」という残念さが残っていたようです。

なので,「じーちゃん,でも論文を出せば博士になれるんだよ」と言って,なぐさめた(というか,ごまかした?)経緯がありました。

なにしろ明治生まれの人ですから,「末は博士か大臣か」と言われていた時代。

群馬大学の講師,助教授になった時も喜んではくれましたが,でも祖父にとってはそうした仕事上の肩書きよりも,「自分ができなかった分まで,孫をどこまでも勉強させてやれた」結果としての「博士号」を見たかったようです。

そんな祖父の願いもあり,母も常々「博士になって,おじいさんを喜ばせてあげなきゃね」と言っていましたから,意地でも博士論文の完成を諦めるわけにはいかなかったのです。


その後,筑波大で文部技官,助手を経て,群馬大学に講師として着任。

学生時代とは異なり,日々の仕事をしながら論文を書き進めることはなかなか難しく,はかどりませんでした。


そこにもう1度,チャンスが訪れました。

2003年,東大先端研に内地留学する機会を得ることができ,1年弱,研究に専念する時間をいただいたのです。

ここぞとばかりに頑張って論文をとりあえず書き上げました。

しかし,その時は博士課程在学中の指導教官はもはや別の大学に移られ,責任を持って論文を審査にかけてくれる人がいなくなっていました。博士課程在学中の指導教官も,実験心理学の手法で研究されている方でしたから,私とは方法は全く異なっていたわけですが,内容なり方法なりで,近接領域の先生がいれば事情は違っていたでしょう。

しかしながら,もとより私の選んだ内容も方法も,それまで特殊教育分野では扱っていた先生がいませんでしたから,頼れるツテをたどってみたものの,「誰も審査できる人がいませんので,審査自体が困難です」という返事でした。

ここでまた,道が閉ざされてしまいました…


しかし,捨てる神あれば拾う神あり,ではありませんが,新たな道が開けます。

学部の修士課程の時の指導教官に相談したところ,「学芸大でも論博の提出はできますから,諦めることはありませんよ」とのこと!(以後,ここでは「師」とします)


ただ,学芸大の論博は非常にハードルが高く,助教授になりたての私の業績では,まだまだ事前審査をクリアできない状況。師からは,「私が退職するまで,まだ時間はありますから,それまでに業績をしっかり積み上げて臨んでください」とのお言葉。


その日から,新たな挑戦が始まりました。

 博士論文の本文を整えつつ,それぞれの章に該当する箇所を,すべて学会誌等に投稿し,根拠付けとなる業績作りを平行して進めました。


そしてようやくこれなら完成かと思えた2010年。

 

論文の主要な事例の2つのうちの1つになっている学校から,掲載を許可するわけにはいかない,との連絡が…

私が扱っていた事例は,1995年前後の,まさに日本の聾教育において幼稚部から全面的に手話を導入していく流れが作られ始めた時期。その時から,気がついたらすでに10年以上の歳月が過ぎていました。

もちろん,時間が経っても風化し得ない価値のある現象を見いだしたからこそ,論文として分析したいと思っていたわけですが,当該校の立場からすれば,今さら当時の話を蒸し返されても,無用な誤解を呼ぶだけなのかもしれません。

先方の決意も固いようでしたので,諦めざるを得ませんでした。

そしてそれは,いたずらにそれだけの長い時間をかけてしまった自分の責任でもありますし。


ともあれ,これによって,論文の根幹をなす事例が消えてしまいました。

もはや,無理かな…と諦め気分も入りました。


しかし,師に相談したところ,普段はとても厳しいお方なのですが,その時は実に優しい言葉かけをしてくださいました。

確かに大変だろうけれども,諦めなければ道は開けます。研究のデザインも大幅に見直さなければならないでしょうけれども,幼児期の手話導入というテーマを見直して,今までやってきた研究をうまく活かして形にまとめ上げることを考えたらいい。研究業績も,非常に難易度の高い学会誌を狙わなくとも,とにかくどこかに掲載していくことを第一に考えて投稿するとよい。

…と,そのような言葉かけをいただいたような気がします。

(*なお,そうは言われましたが,その後投稿した学会誌の難易度が実際に低いということではないです。個々の学会誌の名誉のためにも。)

まず,師の言葉を支えにしつつ,自分の研究業績を見直しました。


聾学校の幼児期における手話導入に関する議論をテーマに研究をしていた時期が2000年くらいまで。その後群馬大学に赴任してからは,聾重複に関する研究を継続的に進めていました。そして,2003年に聴覚障害学生支援に関わってからは,自分の研究の中心は聴覚障害学生支援。支援体制構築に関する研究と,支援技術に関する研究。これらの研究をすべて包含して,それなりに整合性のあるデザインに組み直す作業は,決して容易ではありませんでしたし,実際,ちょっと無理はありました。


師の退職は2012年度いっぱいですから,審査に1年かかることを考えると,残された時間は2年間。

2011年度は,これまでに出したことのないくらい,論文を投稿した気がします。たしか,6本ほど。

そして2011年の冬から,月に2回ほどのペースで論文指導を受けました。

大学教員になって10年以上経っていましたから,実に久しぶりでした。でも不思議なことに,何年経っても,師の前では学生時代に戻ったように,蛇に睨まれた蛙の如く,言葉が上手く返せなかったり…

目的と方法の一貫性をとにかく問われ,そして構成としておかしなところは章を新たに設けて執筆することになりました。

そのおかげで,最終的には,ともかく筋の通った形でひとまとまりの形にすることができました。

そして師から「これなら,わかります。私も責任を持って推せます。」と言われ,ゴーサインが出たのが,2012年4月。

そして5月に学内の業績審査を通過し,博論審査願を学芸大の博士課程係に申請したのが6月。

9月に博論提出の許可がおり,学芸大の博士課程係に博論を提出したのが10月。

審査委員の先生からのコメントを受けて修正をし,1月28日に発表会。あっと言う間に時間が過ぎました。どんな応答をしたのかも覚えていないくらい,とにかく緊張していました。


そして,2月26日。

たまたま仕事が早く終わり,いきつけのBarで一杯いただきながら,メールをチェックすると,博士課程係から,正式に学位取得が確定した旨の通知!

 たまたま他にお客さんがいなかったこともあり,長い間,博士論文と格闘してきた私と見守り続けてくれたBarのマスターが,お祝いしてくれました。


そして3月15日,とうとう学位授与式。亡き祖父の形見のスーツ(サイズがピッタリ!)を着て,母と二人で臨みました。

連合大学院なので,学芸大,埼玉大,横浜国大,千葉大の4大学の学長先生が壇上に並びますから,なかなか壮観でした。それと対照的に,博士号のみの学位授与式だったので,小さな会場にポツンと椅子が数十脚。そのコントラストが,かえって価値の大きさを演出してくれた気がします。

博士号を授与され,母と一緒に真っ先に向かったのは,博士号授与を心待ちにしつつ,数年前に他界してしまった,亡き祖父母の墓前。

学位記を墓前に供え,やっと報告をすることができました。


できあがった博士論文は,「ともかくも全体をそれなりにまとめたもの」であって,とても完成度の高いものとは言えません。それは,自分の力のなさを思い知らされた経験でもありました。でも,「一人の研究者としてできることがいかに小さいか」を知り,それに比して,現象の解明がいかに困難であるのかを知り,ただただ謙虚になることを知ること,これこそが,「学位授与」ということの最大の成果だったのかなと思います。

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