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2011年7月25日 (月)

聾児の日記の文章の間違いは直すべきか?

一昨日,久しぶりに聾教育関係の研究会に参加しました。
ろう・難聴教育研究会。
その懇親会で,こんな疑問を投げかけてみました。
すなわち,「聾児の日記の文章の間違いは直すべきか否か。」
ここで重要なのは,感覚的な話や先入観を廃し,言語獲得理論から見て,はたしてどうかということです。

具体的なイメージとしては,文法上の間違いを訂正して「完成」した作文を嫌々1枚仕上げることと,間違いだらけを気にせずに5枚作文を書けるのと,はたしてどちらの方が効果的なのか?といったところ。

人間には言語を生み出す本能があり,体に宿る言語獲得装置が機能することに期待するとすれば,話し言葉同様に,聾児にとっての書き言葉についても,
1)読み作業によって正しい言語モデルを目から吸収し,
2)エラーを気にせず書き作業による言語表出の総量を増やすことが早道なのではないか,とも考えられるわけです。

もちろん,話し言葉と書き言葉とでは言語の性質も異なれば情報処理のプロセスも異なるだろうから,単純に同一視はできませんし,懇親会でおしゃべりしたりブログやTwitterで端的に書き込む以上に,本当はもう少し丁寧な議論も必要でしょう。そして実際,大学院レベルの授業などでは,じっくりいろんな要素を加味して議論していたりもします。

ここで端的に問題にしたかったのは,話し言葉については「自然法」を推奨しながら,書き言葉のエラーを訂正しないよりは,訂正すべきであるとの「固定観念」を持っているのではないかということです。もう少し意地悪な言い方をすれば,エラーを修正したくなるのは,科学的根拠に基づいているというよりは,実は,間違えている日本語を直さずにはいられない,教師の職業意識に基づいているのに過ぎないのかもしれない,ということです。
さらにいえば,なぜその間違いになるのかの説明ができず,子ども自身理屈がわからなくてもとりあえず訂正したくなるということ。
間違えていることを放っておけない。
放っておくと,何か悪いことをしている気がする。
なので,とりあえず,直しておこう,みたいな。
ただし,ここで注意しておくべきことは,その先に,
・ 理屈がわかるように説明するならば,訂正するのもありか?
・ 子どもの気持ちをつぶさないように訂正するならば,訂正するのもありか?
といった議論に展開することもあり得るということ。
そしてそれも踏まえた上でなお,そもそも(そこまで慎重になってもなお)「訂正する」という作業は欠かせないことなのか?ということです。

似たような議論は,書きだけでなく,読みについても言えそうです。
読書好きにさせるには,ジャンルに制約を設けず,そして感想を聞いてはいけないのが鉄則。
読むことが好きになるためには,読むときは,読むことに集中して,本の世界に埋没すること。
読んでいるときに,「後で先生に質問されるかもしれない」なんて考えてしまっては,楽しくなくなります。
通常教育で,朝の10分間読書が成果をあげているのは,まさにこの原則があるからであって,その狙いは,「10分で何が読めたか?」にあるのではなく,本の世界に入り込むことで,10分以外の時間にも本が読める子どもに変えていくから。
ハリー・ポッターに夢中になって,続きが読みたくなって,授業中も,家で食事をしている時間すらも,体がうずうずして,暇を見つけては読みふける。
麻薬中毒ならぬ読書中毒になり,活字の世界で妄想してトリップするが好きになれば大成功。

朝の10分間読書の実態を学生に聞いてみると,たいていの学生が経験はしています。そして何割かは必ず,感想を書かされたりしていて,そうした学生はたいてい,10分間読書が嫌になっています。
かくいう私自身も,小学生の時は,「本の虫」でした。
漫画は自分のお小遣いで買わなきゃいけませんでしたが,活字の本なら,中身を聞かずに買ってくれた。ただし1つだけ,「今読んでいる本を読み終わるまでは買ってあげない」というルールがありました。我が母ながら,うまいやり方だったと思います。
そんな私が中学に入って読書嫌いになったのは,読書感想文を月一冊書かされるようになってから。
作文が嫌いな私は,それで急激に読書嫌いになってしまいました。
(なぜ作文が嫌いだったか,そんな私を作文好きにするにはどうすれば良かったかについても,思うところはありますが,それはここでは割愛します。)

そして実際,少なくとも私の出会った範囲で言えば,非常に高い日本語のリテラシーを獲得した聾者は,ほぼ例外なく,理屈抜きで読書が好きな気がします。
以前,群大の大学院にいた聾学生は,私よりもはるかに読書のスピードが速く,研究室にある本を3冊くらい借りていって,翌日には全部返していました。彼女には,それが日常です。
あ,でも,先日,群大の聾学生で,とても高いリテラシーを身につけているにも関わらず,「私はそんなに読書が好きじゃない」っていう学生もいました。初めて例外を見つけた!と思いました。
…でもその学生,なんとまあ,高校生の時に『聾教育の脱構築』を完読しているんですよね。本人は意識していないだけで,普通に読書に抵抗感がないために,とりたてて好きとも何とも思っていないだけかもしれません。

さて,書き言葉のエラーを訂正したり,あるいは読書感想文を書かせたり,読書の理解度をチェックしてしまう結果として,文字媒体への自由なアクセスが制限されることになってしまいます。
そのようにすることと,とにかく「アクセスの総量を増やすこと」で体の中のLAD(言語獲得装置)の働きに委ねることとで,はたしてどちらの方がどちらが正しい日本語獲得ができるようになるでしょうか。

実際,文法的な説明をしつくしても説明しきれない(あるいは運用には結びつかない)表現は多々あります。
というよりは,そもそもそれこそが言語の性質とも言えます。
懇親会の席で伺って,なるほど,良い例だ!と思ったのは,
「校長(がorは)帰ったら,メールをチェックします。」
これ,「が」と「は」で主体が変わってしまいます。
「校長が帰ったら」の場合は,メールチェックするのは,私。
「校長は帰ったら」の場合は,メールチェックするのは,校長。
しかしそれだけでなく,さらに,前者の場合は自分の行動の宣言になりますが,後者の場合は日々の習慣あるいは未来の推定になります。
確かに教科書的な説明として,「は」はテーマ化の機能を持つと言われます。そしてそんなことは,聾学校の先生はもちろん,私が教えている大学生でも,どこかで学んでいます。
しかしこの例文は,それだけでは説明が困難です。
当然,文法を理解したつもりでも運用は間違いが起きるわけです。
私自身,aとtheの微妙な区別はさっぱりわかりません。中学生の時に,教科書的な説明は受けているのですが。自分では正しく書いたつもりでも,ネイティブチェックを受けると,赤字の訂正だらけになります。しかしその訂正されたものを見ても,なぜ間違えたかは,わからない。
それが,理屈で文法を理解することの限界なのかもしれません。

しかし,ネイティブスピーカーは,理屈抜きに言語を自在に操ることができます。文法の「理解」ではなく,「感覚」で文法を操れる。ノンネイティブのエラーをいともたやすく指摘・訂正できるにもかかわらず,その間違いの理由は説明できなかったりする。理由がわからずとも,感覚で操れる。
さて,聾児の言語獲得の目標を,このように自在に操れることとした時,その方法は,やはり自分の頭(理屈)でどうにかするのではなく,エラーを気にせずに総量を増やし,「本の虫」になることで,LADにゆだねるしかないのではないかと思うわけです。

なお,一昨日の研究会での実践報告は,これとは異なるアプローチによる優れた実践でした。手話の文法と日本語の文法を対比させつつ,共通した言語構造を子ども自身に気づかせていくもの。
先生ご自身が意識されていたかどうかはともかく,これも生成文法理論に注目したアプローチと言えるかもしれません。
そしてこのアプローチで目指しうることは,自在な日本語を使いこなすことにあるのではなく,第二言語の運用として,「単文」はシンプルな構造でありながらも,より深く,より論理的な「文章」が書けるようになるものといえるかもしれません。
そして実際,例示された中1の時の作文は,そうした成果を感じさせるものでした。

なんにしても,ここ最近,聴覚障害学生支援関係の研究に集中していたために,聾教育の言語獲得における手話の使用に関する研究という,自分の原点の研究テーマから遠ざかっていたことを実感しました。
そして自分がのんびりしている間にも,聾学校の優れた実践は,生まれ続けていることを実感。浦島太郎にならないようにしないと!(汗)

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

「教育と労働安全衛生と福祉の事実」をお読みください。
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http://kyoikkagaku.blogspot.com/
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または、
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http://blogs.yahoo.co.jp/rouanken
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それ以前の「教育と労働安全衛生と福祉の事実」。途中で作成できなくなりましたので。
よければ併せてご覧ください。
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http://kyouikutorouann.blogspot.com/
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京都の教師さま,コメントありがとうございました。
「教育と労働安全衛生と福祉の事実」も,拝見いたしました。
情報をありがとうございました。

「聾児の日記の文章の間違いは直すべきか否か。」 ここで重要なのは,感覚的な話や先入観を廃し,言語獲得理論から見て,はたしてどうかということです。私は賛成です。今日の日本では、あるがまま、自己肯定論が横行し、学ぶことに「王道」はないということが忘れられているように思います。青年期の聴覚障害児を教えた経験から考えると、インテグレートしたり、難聴学級で学んだ生徒には自己表現力がなく、文の形式はそれなりに合致していますが、受容が強調されてきたためか、自己表現、例えば「今まで生きてきてうれしかったこととこれからの自分」などを書くテーマだとほとんど書けませんでした。そこで、徹底的に話し合い、自分が言ったことをそのまま文章として綴る。その文章に私なりの訂正や書き加え、話し合ったことから来る表現方法を提示し、その理由を説明しました。すると、聴覚障害の生徒は生き生きして「こんな書き方があったのか、いいたかったことにピッタリ」と言って、また自分の文章を書き直します。私の訂正や書き加え、は強要しませんでした。すると次から次へと思わぬ文章表現が出されてきて、文章の量は増え続けました。そして、本人が満足刷る文章が出来た、と言ったときに、すべて最初からの文章をファイル化して、何度も読ませ、最終段階になると印刷して冊子にしました。自分の言いたいこととしての文章。その表現。聴覚障害の子どもたちは強く求めています。それを伸ばすための文章表現。教育の中で、避けてはいけないことなのだと思います。冊子になるまで膨大な時間とかなり痛い自腹でしたが、今、それを大切にしている成人した彼らを見ると喜びだけが残ります。
 先生のご意見に参考になるかどうか分かりませんが。

京都の教師さま,すばらしい実践ですね!
これぞ,私が望んでいた方法です。
日本語の力を伸びなくさせる一番の問題は,文章を読むこと,書くことが嫌いになること。
間違いでもいいから山ほど読み書きしないと,書き言葉の能力は育ちませんから。
誤りを訂正すると,子どもは文章を書くことが嫌になる。
だからこそ,そうではなく,教師が書く文章の中で,正しい言語モデルを提示していく。
そして子どもが自分から率先して,訂正して書き直したりするのは,とてもよい流れだと思います。
貴重な実践の紹介を,ありがとうございました。

日本手話学会のHPを経由して参りました、一般人の加藤です。
地元ですこし手話通訳活動をしています。
手話やろう者研究、ろう児教育に大変関心があり、興味深く拝読しました。

質問でもなんでもないのですが(申し訳ありません)、私の考えが間違っているのか確かめたいので少しここに記します。

まず私の両親は先天性のろう者です。つまり私自身はCODAです。
そして主人もろう者、子供は健聴者(4歳、0歳)です。
最近はもっぱら、「日常生活で手話を使う」健聴児に、どうやって正しい音声日本語を(読み書きも含む)教えるか、ということを意識しつつ育児をしています。

私が親や主人をみていると、「日本語を書く」という行為はいわゆる普通の日本人が英語で文章を書く行為と似ている気がします。
たとえろう者は日本人でも、日本語を書く時の脳の働き方は外国語を考えているときのそれと同じようです。

なぜそう感じるか?
それは以下のような理由からです。

私はフランスに2年留学していました。
フランス手話獲得の為でした。
そこで、まずはフランス語が分からなければばなりませんので現地で猛烈に勉強しました。
そこでフランス語の洪水にあいました。
そして初めて「外国語を必死で勉強すると、脳が疲れる」体験をしました。
頭が疲労する、という感じです。
でも今ではフランス語や英語のほうが手話と文法が似ていて、自己表現が楽と感じています。
主語と述語がはっきりしているからかもしれません。

そこで合点がいきました。

私たちが日常で使っている手話は、それをそのまま文章にすると変なんだな、ということは小学生くらいの時からなんとなく感じていました。
幼い頃、聞こえる私は非常に戸惑いました。
日本人なのに手話は日本語ではない・・・????
でも今思えば、
「あなたにとって『国語』は外国語です。ちょっと不思議だけど、がんばろうね」と言われればすっきりしたなぁ、とそう思うのです。
未だに、文章を書く時は頭の中が洗濯機のようになります。(今もそうです)
正直苦手意識が残っています。

まとまりのない文章になってしまいましたが、何が一番言いたいかというと、

「ろう児に外国語を教えるように日本語の読み書きを教えてはどうか?」

ということなのです。
いかがでしょうか・・・。


加藤様,コメントありがとうございました。
貴重な,ご自身の体験談も,ありがとうございました。
「ろう児に外国語を教えるように日本語の読み書きを教えてはどうか?」とのこと。
いわゆるバイリンガルろう教育の提案ですね。
聴力の軽重にかかわらず,聴覚に障害のある子どもに対し,日本手話を早期から導入し,日本手話を第一言語として獲得させることについては,私は意義があると思っています。
とりわけ重度の聴覚障害児については,「意義ある」どころか,不可欠であると思います。
問題は,日本語の獲得です。
これについては,加藤様の仰るように,「外国語を教えるように教える」のも1つの方法だと思いますが,聴力の程度によっては,必ずしもその限りではないと思います。
やや極端な例をあげます。
加藤様が提唱する方法は,聞こえる子どもにも効果的でしょうか?聞こえるにもかかわらず,日本語の獲得については,外国語として,手話を活用しながら教えられる教育をされたとしたら…?
そもそも【聞こえる】わけですから,そんな方法を使わずとも,親子のコミュニケーションを中心に,周囲に聴者がいる環境を上手く用意すれば,音声日本語の獲得はできるわけです。
では,軽度の難聴であれば?
補聴器を装用すれば,聞こえる子どもと同様に,音声日本語の獲得ができるでしょう。
中度であれば?
単に補聴器を活用すればよいとは言えませんが,ある程度の配慮をしていくことで,音声日本語の獲得はできるでしょう。
重度であれば?
困難さはあるものの,昔はともかく今の,聴覚主導の自然法による指導法の技術ならば,十分音声日本語の習得は可能です。90dB程度までは,実際,流暢な音声日本語のおしゃべりができるわけで。
最重度であれば?
聴覚活用のみの自然法アプローチの限界が露呈してくるわけで,1990年代後半まで,全国の聾学校の先生方はここで苦しんできたわけです。そして,聴覚活用による自然法アプローチに,補助手段として手話を併用することになった。

さて,私は聴覚活用によるアプローチの実践がが結果的に日本手話を早期から獲得する権利や日本手話で学校教育を受ける権利を奪っていた点については問題性があったと思っています。聴力の程度にかかわらず,日本手話を第一言語として獲得する環境を整えるべきだと思います。それは自分が自由に操れる思考言語を身につける権利ともいえます。
また,最重度の聴覚障害児にとっては,そもそも肝心の聴覚の活用自体が著しく困難なわけですから,たとえ手話を併用したとしても,聴覚活用による自然法アプローチの実践が最善の日本語獲得の方法とは言えない可能性があると思っています。つまり,それよりは,加藤様の提唱されるような,日本手話をベースに,外国語を教えるように日本語の読み書きを教えるという方法の方が効果的である可能性があると。

ただ,第二言語としての日本語獲得のアプローチについて,聴覚障害児をおしなべて一律に扱い,「音声による日本語獲得に無理がある子ども」と断ずることには私は違和感を感じます。
自由に日本手話を使える環境を保障し,その上での日本語獲得については,聴覚刺激による利便性は大いに活用したら良いと思うし,そのための実践レベルでの蓄積は,これまでの聾教育の中で整えられてきたと思っています。

さて,以上が音声日本語獲得についての話。
書き言葉としての日本語ですが,話し言葉としての日本語が十分に獲得できているかどうかで,書き言葉の習得の容易さが格段に変わってきます。
聞こえる子どもであっても,一定程度の書記日本語の指導は必要ですが,日本語は比較的話し言葉と書き言葉のズレの少ない言語ですし,書記言語の指導はそんなに問題がない。
それが聴覚障害児の場合,確かに,聴力の程度によって,耳で聞いて覚えていた言葉と実際の表記にズレが生じていたりなどの固有の問題は発生しますが,とはいえ,やはり話し言葉として日本語の統語規則を身につけられれば,文法的なエラーの問題はかなり解消するわけです。
そうなるとやはり書き言葉の指導についても,その子どもの聴力の程度によって大きく変わるのではないか,とひとまずは言えると思います。

次に,「外国語を教えるように書き言葉を教える」ということの効果と限界ですが,結論的に言えば,そのアプローチの場合,どんなに上達したとしても,あくまで「外国語としての日本語」の域を出ないだろうということ。
でも,話し言葉としての日本語とは異なり,書記日本語は目で見ることができます。つまり,聴覚に障害があっても,インプットが可能な媒体なわけです。だとすれば,圧倒的な量の言語素材をインプットしていくことで,体の中に宿る言語獲得装置(Language Acquisition Device)が働き,自らの中に日本語の統語規則を作り上げてしまうことは可能なのではないかと思うわけです。
そして実際,聾者で極めて高い書記日本語能力を身につけた人の多くは,極めて多読ですし。
ただし,ブログの本文でも書いたように,そのために必要なことは,書記日本語を「押し付ける」のではなく,好きになること。ここが最も重要だと思っています。

 フランス映画・ドキメント「音のない世界」を昔見た時びっくりしました。
 私がろうあ者から学んだ手話表現とまったく同じだったからです。(今 日本手話とか新しい手話とか言われている人々の手話ではなく、戦前・戦後手話を守り育ててきたろうあ者の手話、とだけ書かせていただきます。説明すると永くなるので。)
 特に映画の西部劇のシーンを他の聞こえない人々に伝える手話表現は、京都のろうあ者が表現する方法と瓜二つで、びっくりしました。加藤さんが、抱かれた感想はわかりますが、手話表現の「根っこ」を知れば違うようで、じつは同じだと私は考えています。ただし、今みなさんが使われている手話ではないことだけご承知置きください。
 

訂正です。映画の題名少し違っていました。

音のない世界で(1992)監督:ニコラ・フィリベール/フランス

です。

金沢先生、詳細なコメントありがとうございました。
最初に申し上げますが、私は一般人で先生がご専門にされている分野、学問には疎く、もしかすると失礼にあたる発言もあるかと思いますがどうかご了承ください。

今回たいへん考えさせられ、すぐにコメントを書いていたのですがどんどん核心から離れてしまった為、すべてやり直して今コメントさせて頂いています。
なぜかというと先生が「やや極端な例」として挙げられた最初のフレーズ"聞こえる子どもにも効果的ですか"というくだりが、私の核心に触れてしまったので考えこんでしまいました。

確かにCODAは聞こえるんだから、周囲に聴者がいる環境をうまく利用して日本語を獲得すればいい。
おっしゃる通りです。
ただ、本当の意味でうまく利用できるCODAはまれではないでしょうか。
当たり前ですが、CODAは聞こえる子どもとして普通校に通います。そこで習う国語はそのほとんどの生徒にとって母語ですが、CODAにとっては外国語もしくは公用語です。
なぜなら手話が母語だからです。
もし同じ教室に両親がマケドニア語を母語とする「容姿が純日本人」のマケドニア人の生徒がいたとします。(便宜上同じく日本であまり耳にしない言語を挙げました)
両親は日本語はそこそこ読み書きできるけれどもどこかすべっているとします。
そうした圧倒的マイノリティとしての環境下で、その子どもは簡単に日本語を習得できるでしょうか。
さらにCODAの場合は複雑で、その性格からして全く違う視覚言語と音声言語を同時に習得するのですから精神的にかなりハードです。
今は同じ「言語」でくくられていますが、私は全く別の脳で操っていると理解しています。
手話は目で見て理解する言語なので...そしてそれはさながら高度な紙芝居のようでもあります。
聴覚障がい者がそうですが、CODAも「見えない障害」を持っていることをこれを機にぜひご理解頂ければと思います。
先生が教えられている子ども達もやがて大人になって家庭を持ち、授かる子は統計学上殆どがCODAなのですから...

最後になりましたが、ろう児には聞こえの程度に合わせた指導法がよさそうですね。
好きこそ物の上手なれ、いかにして押し付けずに興味を持たせるか、が大事なんですね。
ちなみに私の家族はみな最重度で、程度についてはすっかり抜けおちていて配慮不足でした。反省しきりです。

先生のご意見で考えさせられ、これからの育児がますます楽しみになってきました!
そして自分を含め、自分の子ども達にもほかのCODAにも、基本的に「ろう者の真の良き理解者」でありたい、あって欲しいとの願いを強く持ちました。
ありがとうございました!!


加藤様,金澤です。

私の発言が少し舌足らずだったかもしれません。
「聞こえる子どもにも効果的でしょうか?」という部分です。
私は決してCODAの問題を軽視しているわけではなく,CODA固有の難しさがあることは認識しているつもりです。
(ただ,専門ではないので,十分な理解にはたどり着いていないかもしれません。)

しかしその一方で,CODAと聾児は条件が異なるとういう点も無視できないだろうと思います。
ここで,「聞こえる子どもにも効果的でしょうか?」と述べたのは,CODAは聴力的には問題はないため,聴力を活用して第二言語を獲得できる可能性があり,この点は聾児とは条件が異なる,ということを指摘したかったわけです。
CODAが他の聴児と同レベルで不自由なく言語獲得ができる,と述べたわけではありません。

近い例として聾児に置き換えるならば,聾児全体の1割である,両親が聾者である聾児のうち,聴力が比較的軽いケースに近いかなと思います。
そうした子どもの教育を考えた場合,第一言語として日本手話環境を保障することは当然必要だと思います。その一方で
,第二言語としての日本語獲得については,聴力が軽いならば,残存聴力も最大限に活用させようとするだろうと思います。音声からの言語入力が言語獲得を促進させると考えるからです。

繰り返しになりますが,聾児の場合,第一言語として日本手話を獲得するとしても,第二言語としての日本語習得については,残存聴力がどの程度あるのかによって,効果が大きく左右されるという点は極めて重要なわけです。
だとするならば,CODAの教育方法をどう捉えるか?について考える際にも,「聴覚に障害がない(=聴覚障害児とは条件が異なる)」ということを踏まえて教育方法を検討する必要があるだろういうことです。

金沢先生、せっかくコメント頂いたのに反応が遅くてすみませんでした。

聴力についてとても考えさせられました。
ろう児については残存聴力がどれほど大事なのか知ることができました。
CODAは確かに、聴力があるので違った教育の方向性がありそうですね。

そして色々考えさせられて、改めて思いました。
「ろう者は『身体』障害者なのだろうか?」

Reading,Writing, end Speeking...

学生のころに血のにじむような苦労をして言語獲得しても、社会に出てから言葉で苦しむろう者があまりに多いです。
(学生の時の話をするとつらくて泣いてしまうろう者も多いです。今の若いろう学生はわかりませんが、、、)

会社に就職して(身体障害者枠)、
コミュニケーションの問題から単純作業の毎日。
やりがいのない仕事。なかなか昇給もしない。
「手話=特別の対応=めんどくさい」と思われてしまっている。
社内では気分転換に雑談できる相手もいない。
そして鬱になり会社を辞める・・・

多読をしてきて読み書き能力の高いろう者も、
社会に出たときコミュニケーション方法に限界を感じ、苦しんでいます。
きれいに発音しようとしても、読唇しても、限界を感じます。
雑音を拾うだけの補聴器はもういらない、と会社では補聴器をはずし、さらに孤独になる例もあります(100db感音性の例)。

社会参加するために、必死に身に着けた読み書きですが、発揮できる場もなく、
なぜか会社で聴覚障害者は蚊帳の外です。
自分の『障害』を克服するものが読み書きだと信じて頑張ってきたのに。

― ろう者は、『身体障害者』でくくられていいのでしょうか。
会社のなかで死んでしまいそうなろう者がたくさんいます。
同じく言語で苦しんだ、CODAの私の疑問です。

金沢先生の本筋からはずれてしまってすみません、、、。

すみません、金沢先生のお名前を間違えて変換していました。
正:澤
誤:沢
たいへん失礼いたしました。

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