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2010年1月27日 (水)

フッサールを読んで

ずっと前に買っていながら,なかなか手をつけずにいた本を読んでみました。
正確には,一冊全部を読んでみたのではなく,その中の一部ですが。
『世界の名著第62巻 ブレンターノ フッサール』(責任編集細谷恒夫,中央公論社,1980年初版発行)
その中の,フッサール「厳密な学としての哲学」です。

私が方法論的に依拠してきたエスノメソドロジーや構築主義は,現象学的社会学の一派でして,フッサールと言えば現象学の創始者ですから,当然,教科書的には知っていましたし,概説書みたいなものは何冊か読んでいます。
でも,恥ずかしながら,著作そのものを読んだのは初めてなのです。

群馬大学に講師として着任してから今年で10年。
振り返ってみると,いわゆる「古典」的な本を読んでいないことを実感しました。
読む論文は,ついつい,「今,必要なこと」が優先してしまい,骨のある本は後回しになって,買ったまま手をつけていない本が何冊あることか…(汗)
明日の授業で使える資料や論文。
今執筆している論文で参考になりそうな(引用できそうな)論文。
そうしたものだけでも読みきれないわけで,そこが「優先順位にそって仕事をする」という一見合理的な発想の落とし穴かもしれません。
大事なことは,「今,役に立つかどうかもわからないもの」に眠っていたりもするわけで。

読んでみて,「ああ,もっと早く読んでおけばよかった!」という後悔と,「やっぱり,原典を読むのは大事だな」という再確認の思いを持ちました。
そして,エスノメソドロジーが何を目指していたのかが,改めて今少しわかった気がしました。
学部の4年生から大学院の修士課程の頃,とにかく夢中で,必死になって,ガーフィンケルやサックスの著作を読んでいました。
エスノメソドロジーなる,なんだか得体のしれない,しかしこれこそが自分が求めている障害児者の実践や目の前で引き起こされる差別問題を分析できる道具となるかもしれない学問に惹きつけられ,わからないながらも必死でかじりつきました。特にガーフィンケルの文章は,文章そのものは平易に書いているようでいて,中身はやっぱり難解で,表面的には理解できるような気がするけれども,その奥底にある言いたいことはつかめない感じ。
著作そのものだけではなく,周辺の解説書に助けられながら,その業界に入っていった気がします。
そして,現象学的社会学との出会いは,学部の3年生まで,実験心理学系の研究室に出入りしていた私にとって,自分の内なる実証主義との葛藤でもありました。

その頃,フッサールのこの本を読んでいれば,もっとよくエスノメソドロジーが理解できたかもしれません。
…いや,やっぱり,それはないでしょうね。(苦笑)
おそらくやっぱり,「わけの分からないもの」がもう1つ加わっただけのことでしょう。
エスノメソドロジーや構築主義関連の論文を読み,シュッツやフッサールの概説書を読み,中途半端ながらも,現象学的社会学的な研究をしてきた今の自分が読んだからこそ,フッサールの主張が頭の中に入ってきたのでしょう。
「実験心理学の本来の心理学に対する関係は,社会統計学の本来の社会学に対する関係に似ている」(P123)
といったあたりは,現代に引きつけて考えても,よくわかる話です。
そして実験心理学に内在する「欠陥」についての指摘では,そのことを理解している「若干の心理学者たち」を例にとって述べている部分も,「そうそう!」と思いながら読みました。
「これらの人々は,実験に偏する狂信者によってはじゅうぶんなものと認められず,あるいは認められるにしても,それは彼らが実験的な研究をする場合にのみ限られていた。そして彼らは再三再四スコラ学者として攻撃されているのである。内在的なものを真摯に,そして内在的分析という唯一の可能なしかたで,もっと明確にいえば本質分析という唯一の可能なしかたで研究する最初の新しい試みが,スコラ学者として非難され,無視されているのを見て,後世の人々は非常に不思議に思うに違いない。」(P124)
このあたりは,ただひたすら子どもを「丁寧に観察すること」をもってしか,心理学的事実に辿り着けないという考えで教鞭をとられていた,群馬大学名誉教授の中野尚彦先生を思い浮かべました。
また,私自身の評価も,特殊教育の業界では,「実証的」なスタイルにあわせて書いたもののみが「金澤さんもこういう文章が書けるんじゃないの!」と評価されてきたことを思い出しました。そうではないスタイルのものは,障害学や社会学の関係者から「面白い」と評価をいただくことはあっても,特殊教育の分野では「こんなのはエッセイじゃないの?」と一蹴されてきたものです。
それを思い返すと,今の若手研究者は,良い時代になったなあと思ったりします。特に,社会学的な視点から「障害」を扱う「障害学」が一定の社会的認知を得,「障害学会」が立ち上がり,軌道に乗ってきたことは,大きな変化だと思います。

フッサールを読んで,「自分が何をすべきか?」を改めて問い直す時間をもらった気がしました。
そして,やはり,歯ごたえのある「古典」を読むことは,大事だなと再認識しました。

私が,自分の読書力を超えるような,難解な本に噛み付いていたのは,2つの時期です。
1つは,先述した,4年生から大学院修士課程の時ですが,もう1つは,浪人中でした。
「そんな場合かい!」ってツッコミが入りそうですが。
現役で受験したすべての大学からフラれて,浪人した時,思いました。
「大学に入る」って,どういうことだろう?
「勉強する」って,どういうことだろう?
そして,ICUなる大学があることを知り,そのための予備校に通い始め,自分がいかに無知かを思い知らされました。
まさにソクラテスの「無知の知」ですね。
そして,岩波新書と岩波文庫を月一冊,交互に読むことを自分に課しました。
現代の社会常識については新書から。頭を鍛えるためには岩波文庫から(特に青表紙)って発想です。
その時,はじめて読んだ青表紙の岩波文庫は,プラトン著『ソクラテスの弁明』でした。
偶然といえば偶然ですが,その時はまさに今の自分の無知さを再度思い知らされました。
(私は,本との出会いは神様が作ってくれる気がしています。たまたま手にとった本が,「今の自分に一番必要なこと」を与えてくれるものだったという体験は,一度や二度ではないので。)
それから,デカルトの『方法序説』,マルクスの『共産党宣言』など,薄いけれども読み応えのあるものを読んでいました。
読書力もアップし,月一冊のノルマだったはずが,週に一冊のペースで読めるようになり,ものによっては3日くらいで読めるようになっていきました。
中学生の時,月一冊読書感想文を書くというノルマを国語の授業で強制されたことで,本を読むのが嫌になり,月一冊どころか全く本が読めなくなってしまった自分が嘘のようです。
小学生の頃は,とっても読書好きだったのですが,要は強制されるのが嫌なんでしょうね。

結果的に,読書によって,テクニックに頼らずとも,大学入試の現代文の問題はほぼパーフェクトに解けるくらいの力がついていました(だから大学に受かって,今の自分がいるんですけど)。

自分のやりたいことも,見えてきました。
笑い話のようですが,「マルクスのように,世界を変えられる研究者になりたい」と本気で思ったのです。
ただしそのためには,経済学だけではダメで,教育,それも最も困難な環境にある人への教育を学ばなければいけない。…だから,障害児教育を学ぼうと思ったわけです。
「社会を変えるために,障害児教育を学ぼう」と思って入学したわけです。
ですから,専攻外の勉強,すなわち障害児教育以外の勉強は,独学でしなきゃ!と思っていたので,入学後も,いろいろな本を読みました。
なにしろ,大学に合格した時に思ったことが「これでやっと『資本論』が読める!」ですから。(苦笑)
そして入学前の3月の間に,資本論第一巻の半分位を読み,入学後の一年生の時に第一巻の残りを読みました。
いつもポケットには新書か文庫が入っていた気がします。
その割には,授業はサボったりしていましたが,それはそれで,今思うと勿体無いことです。たぶん当時の自分にはある種のおごりみたいなものがあったのでしょうね。「こんなことくらい知ってるぜ!」みたいな。

今思うと,だいぶ変わった学生だったと思います。学部の指導教官からも,「70年代ならともかく,君みたいな学生が90年代に出てくるとは思わなかったよ」なんて言われましたし。(笑)

先述したように,4年生から大学院修士課程の頃が,難解な本に挑んだもう1つの時期でした。
障害児教育分野に身を置きながら,社会学の世界に入ろうとしたところ,魅力を感じつつも,分からない言葉だらけ。
学芸大の社会学専攻の人たちの集まりに,ご好意で同席させてもらったのですが,とにかく話についていけず,必死でした。
みんなが,ムチャクチャ頭良さそうに見えるんですよね。(苦笑)
その頃も,一生懸命,難解な本にチャレンジしました。
ガーフィンケルやサックスのほかに,レヴィ・ストロースとか,ピエール・ブルデューとか,ヴィトゲンシュタイン,ソシュールなど,現代思想系の本を,遅々として進まないながらも,一行一行,考えながら。
特に,現象学(的社会学)との出会いや言語学との出会いは,世界観が変えられる思いでした。
我々は,コードによってものごとを考えている。
世界があるから言語があるのではなく,言語(コード)があるから世界がある。
地震が起きなくても,「天地がひっくり返る」ってことがあるんだなぁ…ってとこでしょうか。
ピエール・ブルデューの「文化資本」も,その後,いろいろなものごとを自分が考える際に,書かせない概念です。

そんな頃の自分を,改めて思い出した次第です。

本って,すごいなと思います。
たかだか数千円で,人生観が変わるのですから!

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コメント

お久しぶりです。

なぜ、障害児教育を志すようになったのか、学部1年生からのお付き合いなのに、はじめて知りました。朝早起きして、仕事の合間にブログ読ませていただきましたが、すごく得した気持ちになりました。ぜひ、今度ゆっくりと話したいですね。

あれ?そうだったっけ?(^_^;)
まあ,当時は頭でっかちだったよね。理論先行で。
うめさんに連れられて,一緒にあちこち出かけたり,自主夜間中学に毎週通ったり,夏に一緒にレタス畑で泊まり込みのバイトをしたことで,「理屈よりもまず実践!」を教わったのかもしれません。
よっちゃんのコメントを見ながら,一緒にレタス農家に泊まり込みしたことを思い出したよ。

興味のレベルはちがいますが、忙しい時に、直接関係のない本を読む、ってことわかります。私も昨年、漢詩・論語など買って読んでみました。
私も明日のネタとなる本でしたら、読んでいるのですが、発想があってその発想に合う本を選んでいました。本を読んで発想を得る、ということ、その通りですね。
 以前、2~3年(5~10年だったかな?)で価値を失う本(目新しさがウリの本)と何年たっても価値の変わらない本という発想を先生から教わりました。
私は本を読んで新しい発想を得られるかもしれない、という程度では本を読む気になれないのです。たぶん読むこと自体の抵抗が大きいのです。しかし明日のネタのためなら読めるんです(というかハウツーものが読みやすいだけか)。
 金澤先生のようないろんな発想の引き出しを持つ方のお話を聞きながら、私自身が発想を得ることができていると思います。
 またお会いしてお話しする機会を楽しみにしています。

ono先生,お久しぶりです。
コメントありがとうございました。
ぜひまた,お会いして,いろいろなお話ができればと思います。本も大事ですが,「人と話をする」ことでも,いろいろな新しい発想が生まれますよね。私も,ono先生の実践感覚から学ばせていただくこと,いろいろありますので。

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