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2009年3月30日 (月)

まずはピックから…

雑誌を読んでいて,ふと目に入った文章(細かい文言は違いますが)。

高校生の頃,音楽をやっていて,ギブソンのギターに憧れた。
でも,高くて買えなかった。
だから,ピックを買った。

うーん,その気持ち,よくわかります。
…っていうか,自分も,そうでした。
ピックなら,ギブソンのでも,安いですからね。
そしてそのピックを使いながら,いつかはあのギターを買うのだ!と心に誓った,みたいな。
憧れを,手に届くところから具体的な形にしていく。
そして実現に一歩近づける。
そんな行為だったのかもしれません。

PS.ギブソンのギター,その後,大学に入って,買いました。
ギター屋で安い中古を見つけて。今でも家にあります。時々,弾いてます。

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コメント

ギター続けてるんだね。

僕は2月からヴァイオリンをしています。娘がピアノを頑張ってるので、自分もと思い、せっせと練習してますよ。

都内某ろう学校の音楽室には本物のギブソン・レスポール・カスタムがあります。

私は・・・・フェンダー派というかストラト派なのですが、あるときテレキャスターを買おうと思って都内の楽器屋を色々回ったら、20万円や25万円の輸入品よりも3万円の国産品の中に1本、異常に鳴りが良い個体を見つけたので、結局それを買いました。

楽器について言えば、値段と楽器としての能力の間にあまり強い相関は無いと感じています。むしろ自分にとってベストな個体を見つけ出す能力が弾き手にあるかどうかと、あとは縁ですね。

小松原さん,コメントありがとうございます。
お嬢さんはずいぶん大きくなったのでしょうね(僕の記憶では,生まれたばかりの赤ちゃんだったので…)。
ピアノ,頑張って!
正直,ギターはそんなに触れていないんですよね。ホントに,たまに,です…(^_^;)

かとうさん,コメントありがとうございます。
ギブソン・レスポール・カスタムがある聾学校って…バンドやってた先生がいたんでしょうかね。
エレキやってた人は,たしかにレスポール派かストラト派か?に分かれましたよね。懐かしい!
ちなみに私のギブソンは,J50という,フォークギターです。高校の時はバンドでベースをやっていましたが,大学では弾き語りをしていましたので。

レスポールを見て「何故こんなものを?」 と尋ねたところ、どうせなら良いものを生徒に使わせてあげたいので、お願いして買ってもらったとのことでした。

ただ、教育楽器のようなほとんどメンテナンスフリーのものや和太鼓は別として、エレキギターやベースにしろドラムセットにしろ、知識を持った人が定期的にメンテをしてやらなければ本来の性能は発揮出来ません。ろう学校の生徒の中にはポップミュージックの演奏に興味を持つ者も無視出来ない割合で居るのですが、そうした生徒たちをコンスタントにバックアップしてあげられるシステムは、残念ながら現在の都立校には存在しません。これはストリートダンスの作品制作を総合学習として行った大田校の実践を取り上げた論文でも指摘しましたが、人事異動によって教科学習以外の部分での教育実践のノウハウが無くなってしまうわけです。困ったものです。例えば近隣の大学のサークルと継続的に提携して、バンド演奏やダンスの実践的知識の供給源にするなどの策も検討して良いかと思います。

ちなみに私のフォークギターは30年くらい前のヤマハのFGです。

かとうさん,コメントをありがとうございます。
良い音楽を聴かせるのが一番,良い楽器を持たせるのが一番,みたいな考え方には,私もあまり賛同できません。
かとうさんのご指摘のように,メンテナンスの問題も確かに重要ですが,私はちょっと違った観点から。
それは,聴覚障害児の場合,その聴力の特性への配慮を最優先すべきだ,という観点です。
聴覚に障害があろうと,この子なりに聞き取っているのだから,「一流の音楽」に触れさせよう!と考えて,オーケストラの公演に熱心に連れて行く親御さんもいたりしますが,その熱意に水を差すようですが,聴力特性によっては,それはただの雑音にすぎません。
もちろん,本当のきこえの状態は本人にしかわかりません。でも,例えば高音急墜型の聴力であれば,そのオージオグラムにあわせて,高音をイコライザーでカットしたものを,まずは親御さんが聞いてみるといいと思います。それでその「一流」の音楽を楽しめるのかどうか。
同様に,楽器についても,その人によって,聞き取りやすい楽器があったりします。例えば私の非常に親しい方で,聴覚障害のある方は,ピアノの音はわかるけれども,ギターの音はよくわかりにくいと言います。
さらに,デジタルだと音の「味」がわかりにくいから,音楽を聴く時にはアナログにする,という人もいます。
もっと気になるのは,人工内耳。人工内耳は,手術と術後のマッピングが成功すれば,音韻の弁別にはかなりの効果があがりますし,環境音にしても,今までは全く聞こえなかった音がどんどん入ってきます(「成功」の度合いによっては,ですが…)。
しかし,メロディーの知覚はどうか。さらに,和音はどうか。そしてさらに,音色の違いはどうか。
こうしたことについて,丁寧な検証も行われていないまま,聾学校での音楽の授業は今までとかわらずに行われています。
もちろん実践は研究ではありませんから,厳密な研究を現場でやってほしいとは言いません。でも,子どもと向き合って,どの程度の音が認知できるかを確認する作業をするくらいなら,そんなに大変ではないと思うのです。1クラスの人数は少ないわけですから。自立活動の先生と協力し合って進めるのも手ですし。
その結果,例えば10本の指を使って和音を鳴らすよりも,音を重ねずに1音ずつ鍵盤を叩いた方が,「わかりやすくて楽しい!」ということになるかもしれません。

かとうさんのご指摘のように,聾学校の生徒さんで,ポップスが好きな人もいますし,ハードロックが好きな人もいます。それはそれで,結構なことだと思います。
大いに楽しんだらいいと思います。
ただし,教える側の教員や,音楽あるいは音楽教育の研究者は,「この子はそれをどのように知覚しているのか?」という本人の聞こえのリアリティをできるだけ具体的に想像して,教材・教具の工夫をしていかなければならないだろうと思っています。

その先生の場合は、まず生徒が何をやりたいか希望を聞いて、一人一人の様子を見ながら丁寧に授業を構築されるスタイルでしたし、どのクラスでも児童・生徒との信頼関係は非常に強いものがありましたから、おそらくこの事例に関しては、ご心配のようなすれ違いは無かったと思います(これは生徒さんへのインタビューでもほぼ確認出来ました)。

人工内耳による音楽(音響による音楽)知覚については、中田隆行さんらのグループが何本か論文を出しておられますね。医学系の大学でないと持っていない雑誌が多いので、私はまだ読んでいないのですが。補聴器や人工内耳などヒアリングエイド機器を通した音響による音楽の聴取の研究はそれなりに出てきているわけですが、ろう学校の現場に送り込まれる音楽科の先生方がそういう研究成果を踏まえた教員養成をされていないというところに最大の問題があるでしょうね。

なお、私の博士論文は聴覚障害者が音響による音楽をどう経験するのかという問題意識から出発して、音響の知覚を音楽経験の必要条件とするのはもう止めないかという結論に至るものでした。音響を特権視するのを止めて、音響の知覚も含めた音楽もあれば、そうでない音楽だってあるという風に音楽の定義を書き換えちまえと。

もう一つ思い出したのですが、高村真理子さんが存命の頃、「知覚できるかどうかという意味ならば(ギターの中ではアンプやイコライザーやエフェクターを使える)エレキギターが一番だが、自分が楽器として最も好きなのはクラシックギターだ」とおっしゃっていました。高村さんはたしか右が全域でスケールアウト、左が下の方だけ何とか聞こえる感じで、医者からは「何故このオージオグラムでインテが出来たのかわからない」と言われていたとのことでした。

聞こえる、聞こえないという観点だけで見れば、教材や教具や教育楽器のチョイスはオージオグラムを見てマニュアル的に「この聞こえならこれ」とやれるんだと思います。でも、私の見聞きした範囲で言えば、聴覚障害者の方々がどのような音楽家・音楽作品・楽器を好まれるのかは、聞こえ方ももちろん影響するのでしょうけれど、それ以外の個人的なものが非常に強く影響しているように思います。近年の音楽学の流れを見ても、テクストの受容に対するコンテクストの影響力は極めて大きいというのが常識になりつつありますし。

そう考えると、まずは児童・生徒が何を好んでいて、何をやりたがっているのかを知ることから入るレスポールの先生のアプローチは、とても理にかなっているのではないかと感じます。

音は「耳で聞く」のではなく,「脳で聴く」と言われます。いわゆる「聴能」です。
当たり前と言えば当たり前ですが,このことが「当たり前」とは言えないくらいに,聴覚障害児教育の現場で,聴覚活用に関わる実践者を驚かせる「活用」を,聴覚障害の子どもたちは示してくれたわけです。
だからこそ,聴覚障害児教育の実践者・研究者は,オージオグラムで「医学的」に「まったく聞こえていない(はず)」と割り切ってしまうお医者さんの世界へのアンチテーゼとして,「聴覚には無限の可能性がある!」と主張し続けたわけです。日本聾話学校や母と子の教室など,私立や民間の機関,そして大学関係者を中心に。
それは確かに1つの事実でしょう。医学では割り切れないほど,いろいろな可能性を,事実,聴覚障害の子どもたちは示してくれたわけです。
しかしその一方で,「無限の可能性」の落とし穴もあるわけで,聴力が厳しければ厳しいほど,出口の見えない無限の闇を,親子共々探っていくことになるわけです。
実践者も,皆がうまくいかないなら,まだ割り切れるのですが,中に時々,「奇跡」が起きるから,やっかい。「130dB(あるいはそれに近い)なのに○○ができる!」みたいな事実が起きてしまうので,「だったらうちの子も…」となるし,先生も「もう少し頑張りましょう!」となる。お互い,「無限の可能性」から抜け出せない。子どもが悲鳴を上げていても。
まさに,『聾教育の脱構築』で,八木先生が書かれた論考がその点を指摘されたわけです。オージオロジストとして,聾学校の第一線で突き詰めて活躍されていたからこそ,見えてきた境地なのかもしれません。

音楽についても同じことがいえるわけです。私が望むのは,もちろん「楽器のチョイスはオージオグラムを見てマニュアル的に「この聞こえならこれ」とやれる」という発想ではありません。
その逆に,例えば聴力の状況を無視して一流のオーケストラを聞かせて,「きっとこの子もこの子なりに,名作の良さを感じているはず」みたいなオカルトまがいな話は論外です。
一人一人のお子さんの聞こえのリアリティをつかむということです。もちろんそれは本人にしかわかりませんが,それに近づく作業は,日々の関わりと,詳細な観察によってできるわけです。
もちろん,「好きこそものの上手なれ」ですから,好きなものはモチベーションを高めますし,大事です。ただし,その時にも,その子が「どのように」それを楽しんでいて,どのような観点から好きになっているのかを分析しなければいけません。
例えば,カラオケが好きな聴覚障害児もいますが,どのように楽しんでいるのか。映像,字幕,振動,音の高低,大小,…。
音楽でロックが好きな子は,ガンガン鳴っているからこそ音がつかめるのかもしれません。ただしその音は,ベースと2本のギターの音の重なりを味わっているわけではなく,何となくモワッとしたものを聞いているのかもしれません。そしてそれは聴者にとってのそれとは全く異なるリアリティなのでしょう。
逆に,ピアノソロが好きな子の中には,一音一音の音色を味わいたいから,楽器が重ならないものを好むのかもしれません。それはそれで,連弾になるとわからなくなったり,楽器がちょっとでも重なるととたんに混乱したりして,やはり聴者とは異なるリアリティの中にいるのでしょう。
研究者は分析的にデータを取りたがりますが,ではそれが聴覚障害児のリアリティを解きほぐせているかといえば,そんなことはありません(だから,聴者は「聴能(オージオロジー)」に魅力を感じ続ける(人がいる)わけですが)。
では現場ではどうか。実態は,これはこれでオカルトな発想から抜け出せなかったり,アバウトな発想でごまかしたりしているのではないか。「この子なりに何かをつかんでいるはず」というやつですね。
ぜひ,実践現場の中で,1人1人の子どもの聞こえのリアリティを,手探りでも,つかんでいきながら,音楽の素材,教材,教具を吟味し,実践していってほしいと思うのです。
(もしかしたら,そうした「手探り」の作業は,知的障害養護学校の現場の,一流の先生あたりが日々行っている作業と似てくるのかもしれません。)

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