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2007年9月30日 (日)

「ほとんどいない」か?

論文などを書くとき,研究者としては当たり前のことでしょうが,おそらく周囲の人が想像する以上に,1つ1つの言葉には気を遣っています。
私は,わりと「断定的にモノを書く」と言われることがある気がしますが,そう見えても,一言一言の言葉選びは,結構慎重に考えて書きます。
「ほとんどいない」がいいのか,「少しはいる」がいいのか,この辺になると,文脈の中でのニュアンスの微妙な違いだったりするので,自分でも感覚的に選んでいるところも否めませんが。
でも,「ほとんどいない」とは書けても,「まったくいない」とはなかなか書けません。
1例でもいたら,嘘になりますから。

一方で,「金澤は,現場を見てもいないのに,断定的なものの言い方をする」的なご批判を,しばしばいただくことがあります。
正確には,直接言っていただければ,ご説明するのですが,なかなかそうはならないもので,そこが難しいところです。
例えばそう言われる理由として,「聾学校では日本手話が読み取れる教員がほとんどいない」といった類の記述があげられます。
「聾学校の現場にも,聾者と深い関わりを持っている教員もたくさんいる。そしてその中には,相当な手話の使い手もいるし,手話通訳者としても活動し,日本手話を十分に読み取れる人もいる。そうした実態を知らないのではないか」といったところでしょうか。
私は,最近は聾学校の現場から多少は離れていましたが,基本的には,研究者の中では,かなり学校現場を見てきている方だと思うんですよね。
もちろん「それで十分か?」と言われると,そんなことはないでしょうけれども。

この現象の読み解きは,「何を分母として考えるか」が重要になります。
例えば,手話を聾学校に取り入れたいと思っている人たちが集まる研究会に行けば,手話を日常的に使用している人たちによって分母が構成されます。
その中では,大変流暢な手話の使い手も目立ちますし,聾者からも,「あの先生の手話はOKだ」と言われる人も散見されます。
その様子を日常的に見慣れていると,「『ほとんどいない』はずはない!」と思ってしまうわけです(私自身も,その感覚に陥ります)。

しかしながら,各学校に戻ったとき,そうした人たちは,全体のうち多数派と言えるでしょうか。
あるいは学校間での温度差もあるでしょうから,それを全国的におしなべて考えた場合は,どうでしょうか。
100人に1人程度だったら1%
50人教員がいる学校に1人だったら,2%程度です。
果汁1〜3%程度のオレンジジュース,みなさんなら,「たくさん果汁が入ってるじゃん!」と思いますか?
「ちっとも入ってないじゃん!」と思いますか?
もちろん,果汁と人間を一緒にはできませんけれども。
でも,分母を「日本全国の聾学校教員」として考えたら,「多くいる」とは言えないでしょうし,少なくともまだまだ少数派であることは間違いないだろうと思うのです。
手話をつけながら授業ができる教員なら,「多くいる」と言ってもいいかもしれませんが,日本手話が読み取れる教員は,まだまだ「わずかしかいない」か,「ほとんどいない」か,どちらかの記述になるだろうなと考えるわけです。

「日本手話が読み取れる教員はほとんどいない」という記述で行こうと決めるとき,必ずしも,その根拠は,何かの調査結果に基づいているとは限りません。
むしろそうではない時の方が多いかもしれません。
とはいえ,少なくとも,なんとなくの見かけに惑わされて分母を見誤らないように注意して,判断をしたいと思っています。

ただ,そうは言っても,最近は手話が上手い先生が飛躍的に増えた気がしますので,分母自体が変化している気もします。
そろそろ,「多数派とは言えないが,各学校に数人はいる」と言ってもいいかな,と思いつつある今日この頃です。

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