「聾教育の脱構築」(明石書店)は,初めて,そして現時点では唯一の,私が編集した本です。
わかりやすく言えば,本の表紙に,自分の名前(だけ)が載った本,とでも言いましょうか。
この本が世に出てから,もう6年がたちました。
つくづく,本は生ものだと思います。
もちろん,何年たっても色あせない本もありますし,時代が経つにつれて価値が増す本もあります。
しかしながら,この本は,「今しかない!」と思って書いた本でした。
そして良くも悪くも,読みは当たった気がします。
初版は,瞬く間に完売しました。
しかし,「これで夢の印税生活か…!」という願いもむなしく(笑),第2版で,売れ行きにブレーキがかかり,そこでストップしました。
これほどわかりやすく,「生もの」感を売れ行きで示した本も珍しいかもしれません。(苦笑)
そして読みが当たったと思うのは,確かにあの時と今とでは,時代がずいぶん変わってきていると実感するからでもあります。
本当に短期間の間に,聾教育を取り巻く状況は変わりました。
今,あの本を出しても,価値はずいぶん下がっているでしょうね。
少なくとも,旬は過ぎてしまった。
あ,もちろん,ずいぶんと本質的な議論も展開していますから,色あせない,普遍的な価値をもつ部分もたくさんあるだろうと,自負してもいます。
あの時にしか,出せなかった本でしょうし,二度と組めない執筆陣だからこそ,価値があるともいえるかもしれません。
たまに,「よくぞそこまで読み込んでくれました!」とこちらが思うほど,読み込んでくれた上での感想をいただくことがあり,そんなときはとても嬉しく,作者冥利に尽きます。
その一方で,実はときどき,amazonのカスタマーレビューを見ることがあるのですが,残念ながら,ここでは,けっこう,酷評されています。(--;)
論文も,本も,書き終わってしまうと著者の手を離れてしまうものだということは,これまでの執筆経験から,身にしみていることですし,それぞれの方の読み方があると思っています。
まずは手にとって頂いたこと,そして読んで頂いたこと,それだけでありがたいことです。
まして,感想をいただけることは,わざわざお手間をかけているわけで,本当にありがたいことです。
そして,感想をお寄せ頂いた方々は,プロの物書きではありませんし,匿名で書かれるものですから,必ずしも書評を書くためのトレーニングを積んでいるわけではありませんし,文章に責任を負う義務もありません。
ですから,自由にお書き頂いて構いません。(というか,私には,止める方法も,止める権利もありませんし…)
そんなわけですから,カスタマーレビューは書評とは違ったものとして,私も読ませて頂きますし,それはそれで,よいのかなと思っています。
うーん,「よいのかな」と言うよりは,「しょうがないのかな」という感じでしょうかね。正直な気持ちとしては。
なにしろ,反論できませんから。
ちなみに,書評の基本は,著者の言いたいことを,著者の視点にたってまずは共感的に感じ入ることから始まります。
著者がなぜ,どのような思いで,このような文章を書いたのかを共感的に理解し,その上で初めて,「こんな書き方もあったのではないか?」といった批判を添える。
そうでないと,単に,「独りよがり」な読み方による,「ないものねだり」的な批判になってしまう。
私自身,大学院レベルの授業では,「ないものねだり」的な,一方的な批評を学生がした場合は,厳しく戒めます。
なぜならそれは,そもそも「きちんと読めていない」ことの証明でもあるからです。
そうした読書のトレーニングを十分に積んで初めて書評ができるわけです。
論文を書くよりも難しい。
その意味では,同じくらいの分量の書き物を世に出していなければ,書評をする資格はないと言っても過言ではありません。
…といいながら,やむを得ず,私自身,身の丈を越えた書評を引き受けることがありますが,実は,書評は自分がもっとも引き受けたくない仕事の1つです。
自分のために読む時の読み方以上のエネルギーが必要ですから,時間的・精神的余裕がないと,引き受けたくない。
ちゃんと読み込めていない時は,批判もできません。
実際,以前,十分に読み込む余裕がなく,そして十分に執筆できる時間がなく,「書評ではなく,紹介という形にして下さい」と編集者にお願いをして,その本の背景や意義のみを述べて形にしたことがありました。
もちろん,こんな形のものは,研究者として恥ずかしいんですけどね。
そういえば,以前,私の修士論文を,上農正剛先生に読んで頂いた際,丁寧なお手紙をいただいたのですが,あまりにも的確に私の意図を読み解かれたのに脱帽でした。
論文には示していない,言外に込めた思いや,影響を受けた社会学者の名前,隠れた戦略的な意図までも,見事に射貫かれました。
あの時は,「参りました!」って感じでした。
丁寧に読まれた上で,その裏の意図まで見破られた時は,勢いだけ激しい批評の数倍も「ヤラレタ!」感が強いです。
その逆に,的外れな批評は,それがどんなに厳しい言葉でも,「なんでちゃんと読んでくれないんだろうか…」という思いだけが残り,書き手の心を射貫きません。
残念ながら,カスタマーレビューや,その他いろんな形でお寄せ頂く感想では,なかなか心に届く批評に出会うことができません。
なにしろ思うのは,この本に多くを求めないでほしい,ということです。
この本は,編者である私の,ごくごくシンプルな主張に,少なくともその部分においては賛同して下さった,立場の異なる著者の方々が,それぞれのお立場から論を展開して下さって,できあがったものです。
ですから,極論すれば,たった一つのことしか,主張していません。
そもそもどんな論文でも本でも,筆者が持っている知識や思いと比べれば,ごく一部しか形にできていないものです。
ですから,おそらく著者は誰でも,できあがったモノに対して,「これしか書けなかった…」という思いを,少なからず感じるものではないでしょうか。
その上で,特にこの本は,究極的にはたった1つのメッセージだけを伝えるために編纂したものなのです。
さて,先に述べたように,カスタマーレビュー等では,反論の機会がありません。
そして自由に書けます。
「本は市場に出回るものだから,どんな読み方をしてもよいし,感じ方はそれぞれの読者の自由だ」という主張もありうるでしょう。
しかし本当にそうでしょうか?
ヘーゲルの「精神現象学」を読んで,あるいはカントの「実践理性批判」を読んで,「さっぱりわからん!」と読者が思うのは,ヘーゲルやカントが悪いのでしょうか?
ちなみに私は,クラッシック音楽はさっぱりわかりません。
そんな私が,モーツアルトを聴いて退屈で寝てしまったとして,それはモーツアルトのせいなのでしょうか?
感じ方は人それぞれ,その人の自由だとはいえ,やはりこんな私が,「モーツアルトはくだらん!」と批判するのは,モーツアルトとその熱心なファンを冒涜する行為だと思います。
なぜなら,私はその「面白さ」を味わうほどの知識も耳も持っていないからです。
同様に,私は千円のワインと1万円のワインを飲み比べても,違いがわからないかもしれません。
仮にその違いがわかったとしても,たぶん1万円と10万円とでは,違いがわからないでしょう。
では,10万円のワインには,10万円の価値がないのか?…違いますよね。
わかる人には,違いがわかるわけです。
ウイスキーは好きです。
アイラ島のシングルモルトウイスキーの独特なカスク臭が好きです。
…ここまでは,味わえます。
でも,それよりも細かい違いとなると,並べられてテイスティングをすればわかるかもしれませんが,ムリかもしれません。
で,これもワインの話と同様です。
私自身の「わかる」「楽しめる」水準が,そこまでしか達していないということであって,ウイスキーが悪いわけではない。
そしてこの水準は,経験(トレーニング)によって変化します。
高校,大学と,フォークギターを弾いていました(当時はChage&Askaが流行っていました…そんなことはどうでもいいのですが)。
ギターの音の違いは,弾きこなしていくうちに,そして良いギターに触れていくうちに,だんだんわかってきました。
そのうち,1万円のギターが弾けなくなりました(まあ,このレベルだと,音はもちろん,それ以前にネックが反っていたりもしますが…)。
そして2〜3万円のギターと10万円のギターとでは音の厚みが全然違う!と感じるようになりました(そして10万円のギターを買いました)。
その後,マーチンやギブソンといったトップブランドの音を「良い!」と思えるようになりました。
そしてギブソンの枯れた音色に惚れ込み,18万円のギブソンJ50を買いました(中古で,今思っても破格だったと思います)。
でも,20万円くらいのギターと,50万や100万のギターとの差は,私には,わかりません。そして現在に至ります。
やたらとたとえ話が長くなってしまいました。
で,本も同じだと思うんですよね。
だからこそ,批判をするためには,まずはその本をしっかりと読めていなければいけないだろうと思うわけです。
そのためには,やはりそれなりのトレーニングが必要ですし,そして責任が伴います。
それが,「書評」だと思うのです。
誰でも自由にカスタマーレビューが書け,それが購入の際の参考になるというシステムの良さもあるでしょうけれども,やっぱり,疑問も残りますね,正直。
せめて,著者からもコメントできるようにしてほしいなと思います。
(ホテルや旅館のネット予約システムでは,宿からの返事も載っていますね。)
なので,ここで,口頭でお寄せいただいた感想なども含め,これまでいただいた感想へのリプライをしたいと思います。
「聾教育を始めた人や,手話に興味を持つ人への最適な入門書」と仰って下さる方,お気持ちはありがたいのですが,やっぱりこれは「入門」レベルではないですね。(^_^;)
(「皆に読んでほしい」という意味でのリップサービスなのでしょうけれども…)
というのも,各執筆者にお願いする段階で,「わかりやすく概説書を書くのではなく,今こだわっているマニアックなこだわりを深く掘り下げて書いてほしい」と頼んでいるからです。
ねらいとしては,今まで聾教育に関して,悶々とした思いを抱えて何年も過ごしてきた人が,この本を読んで,次の一歩が見えた!みたいになってもらえたらありがたいなと。
実際,「目から鱗が落ちた!」といった感想をいただくこともありますが,(リップサービスとしても)これは嬉しいですね。
「日本手話賛美の本だ」と仰る方もいますが,それもいまいちピントがずれている気がします。
たしかに必要だと私は思っていますし,おそらく全ての執筆者も同様でしょう。
しかし,本のねらいとはちょっとズレている気がします。
「(聴覚)口話法をやみくもに否定している」と仰る方は,たぶん,誤読です。
少なくとも私自身は,自然法的な聴覚主導の教育は,日本語獲得を行うための効果的な方法の1つだと思っています。
むしろ,「聴覚口話法で指導を行う場合であっても,必要なことがある(そしてそれが欠けていた)」と言いたいわけです。
「古い聴覚口話批判であり,現在の聴覚口話法をわかっていない」というご批判もいただきました。
また,「現場をわかっていない研究者が書いている」というご批判もいただきました。
多彩な執筆陣にお願いしてできあがったものですから,それぞれのお立場はあろうかと思います。
とはいえ,聴覚口話法を批判的に論じている人は,少なくとも私の認識では,最先端の聴覚口話法を想定していると思います。
そしてなにより,その実践をくぐり抜けて自己批判的に論じられている実践者も複数名おられます。
「手話を使った上で,日本語の獲得はどうするのか?」といった,言語指導法の具体例が載っていないことを指摘される方もいます。
この本では,そこまで踏み込んで論じるつもりはありませんでした。
それは,この本の先に,さまざまな方に展開していただきたいと思っていました。
この本は,「指導法がどうあるべきか?」を論じた本ではなく,その前に必要な大前提を確認することが目的です。
「…について,言及していない」といった形の論評をいただくこともありますが,私自身,自分が伝えたいことのうち,書き物で示せるのは,ごくごく僅かなことにすぎないというジレンマの中で,モノを書いています。
おそらく,他の著者の方々も,同様でしょう。
この本では,出発点を示したに過ぎません。
あるいは,「出発点にすら,たっていない」ということを示したに過ぎません。
この本を私が企画したときは,まだ筑波大学で技官をしていたときでした。
そして,群馬大学に講師として赴任したばかりの頃に,執筆の依頼が済み,明石書店の会議室で,企画会議を開きました。
今思うと,改めて,大それたことをしたなぁと思います。
なにしろ,ほとんどの執筆者の方々は,私よりも年配です。
それどころか,その世界の第一人者だったりします。
よく,こんな若造の頼みを聞き入れて下さったと思います。
そして,「呉越同舟」とまでは行きませんが,立場の異なる人たちが,集まって下さいました。
まさに,あの時期,あのタイミングだからこそ,執筆に賛同が得られたのでしょう。
先日,当時明石書店におられて,この本を担当して下さったTさんとお会いした際,「この本は,二度と交わることのない人たちが,一瞬だけ近づいた瞬間に作られた本ですよね」と指摘されました。
さすがTさん,この世界をよく見ています。
では,この本で伝えたかったことはなんだったのでしょう?
それを書いちゃ,つまんないですね。
ぜひ,それをつかむつもりで,今一度,お読みいただけたらと思います。(笑)