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2007年8月31日 (金)

八ヶ岳に行ってきました

身体がなまりっぱなしの私が,先日,八ヶ岳の一番高い山,赤岳に登りました!
朝5時から5時間かけて,山頂についたときは,自分で自分をほめまくっちゃいました。
行者山荘までの3時間は比較的なだらかな道でしたが,そこからの2時間のきついことといったら…。
さすが,天下の八ヶ岳でした。

下山するときには,ちょっと気持ち的に余裕が出て,ふと気がつきました。
険しい山なので,至る所に階段があったり,鎖があったりすることに,今さらながら,気がついたのです。
それがある,ということは,私たち入門登山者のために,骨を折ってくれた先人の苦労があるわけですね。
加えて言えば,登山者が利用する山荘があったりするのも,それを用意してくれる誰かがいるからなわけです。
私たちよりもはるかに上級者の方々のおかげで,山頂までたどり着けたわけです。
登るときには,さんざんお世話になっていながら,夢中だったので,そこにあることが当たり前で,何も考えませんでした。
そして,自分1人の力で登り切ったかのようなつもりになっていた。

登り切ったのは自分です。でも,見えない支援のおかげでもあります。
そう思うと,私たちが,「人に頼らずに自力でできる(できた)」と思っているいろんなこと,いや,ほとんどのことが,実は多くの支援に支えられて,できているんだなと,改めて思いをはせました。
(登山中にそんなことを考えるあたりが,やっぱり研究者チックですが…)

そんな自分は,今,大学内の共同研究プロジェクトで,知的障害者の「支援つき就労」の可能性をさぐっています。
知的障害のある方で,支援者がいることで力を発揮できる方はたくさんいます。
彼らは,「支援がないと仕事ができない」人なのではなく,「適切な支援があれば,持っている能力を発揮できる」人たちです。
それは,特別なことではありません。
なぜなら,私たち誰もが例外なく,他人の支援を得ながら仕事をし,また,生活をしているからです。
そんなことを,八ヶ岳最高峰の赤岳を下りながら,ふと思いました。

2007年8月27日 (月)

「何も考えない」ということ

温泉の露天風呂につかっていると,つくづく,「群馬に来て良かった!」と実感します。
それこそ,大学から車で5〜10分圏内にも,いくつか温泉がありますし,かの伊香保温泉までも車で20分。
天下の名湯,草津温泉も,日本屈指の高原温泉郷,万座温泉も,日帰りで楽しめます。
万座温泉の露天風呂からは,天気が良ければ,一面に絶景が広がります。
雑事を忘れて,思索に耽る,至福の時!
よく,「なんにも考えずにボーッと過ごす」なんて言い方もしますけど,正確には,人間そうそう何にも考えずにいられるもんじゃない。
風呂につかるくらいで「何にも考えない」自分になれたら,座禅はいらないし,修行僧みたいな苦労はいらないわけで(修行したって,悟れるとは限りませんけど…)。
山際に沈む夕日を見ながら,ゆったりと露天風呂につかっていると,普段頭の中に置き忘れていたことを思い出したりします。
行き詰まっていた構想が,スーッとまとまったりもします。
そんなわけで,「何も考えない」というよりは,考えあぐねていたことが,スーッと考えられることに価値があるように思うわけです。
あるいは,1つのことに(気合いを入れずに)集中して考えられたり。
ぜひみなさん,群馬にお越しの際は,たとえそれがお仕事の用事で前橋市内や高崎市内にしか用事がなかったとしても,温泉地まで足を運ばせて見て下さいね。
どうしても時間がとれないという方には,前橋駅北口側の,前橋駅前天然温泉ゆ〜ゆ
(http://spa.s5.xrea.com/broom/gunma/yuyuf.htm),お勧めです。
駅前ですが,伊香保温泉の黄金の湯のような,茶色の,いかにも温泉!って感じの湯で,源泉100%かけ流しです。

そうそう,温泉と言えば,1つ気になることがあります。
ほとんどの露天風呂には,時計がついていないんですよね。
それどころか,お風呂場に時計がないところも多い。
時間が気になったら,脱衣所にある時計を見に行かなければならないので,けっこう面倒です。
たぶん,「時間を忘れてゆったりしてほしい」という理由なのでしょう(違う理由かもしれませんが)。
でも,時間が気になって,全然「ゆったり」できません。(^_^;)
日帰り入浴にフラッと立ち寄って,後の予定があったりして,1時間ほどで出ようという時はもちろんですが,男女複数で出かけて,あがる時間を待ち合わせている時も,時間は気になります。
宿泊して,「後の予定」を入れていなかったとしても,夕食前にお風呂につかっていたら,夕食の時間は気になります。
逆説めきますが,時間が確認できるからこそ,時間を気にしないでいられると思うんです。
「時を忘れて…」というのは,時計(時間を知らせるモノ)をなくせばできるものではなく,「いつでも確認できる」という安心感があればこそ,時間を「忘れて」(というよりは,正確には「気にせずに」)過ごせるのではないでしょうか。

2007年8月16日 (木)

「『聾教育の脱構築』を振り返る」を更新しました

先日アップロードした,「『聾教育の脱構築』を振り返る」ですが,一気に書いたものでして,改めて読み返すと,もう少し言葉を足したくなりました。
なので,加筆しました。
長くなったので,「ニュース」からは,外しました。
カテゴリーから辿っていただければと思います。
よろしくお願いします。

2007年8月14日 (火)

「聾教育の脱構築」を振り返る

「聾教育の脱構築」(明石書店)は,初めて,そして現時点では唯一の,私が編集した本です。
わかりやすく言えば,本の表紙に,自分の名前(だけ)が載った本,とでも言いましょうか。
この本が世に出てから,もう6年がたちました。
つくづく,本は生ものだと思います。
もちろん,何年たっても色あせない本もありますし,時代が経つにつれて価値が増す本もあります。
しかしながら,この本は,「今しかない!」と思って書いた本でした。
そして良くも悪くも,読みは当たった気がします。
初版は,瞬く間に完売しました。
しかし,「これで夢の印税生活か…!」という願いもむなしく(笑),第2版で,売れ行きにブレーキがかかり,そこでストップしました。
これほどわかりやすく,「生もの」感を売れ行きで示した本も珍しいかもしれません。(苦笑)
そして読みが当たったと思うのは,確かにあの時と今とでは,時代がずいぶん変わってきていると実感するからでもあります。
本当に短期間の間に,聾教育を取り巻く状況は変わりました。
今,あの本を出しても,価値はずいぶん下がっているでしょうね。
少なくとも,旬は過ぎてしまった。
あ,もちろん,ずいぶんと本質的な議論も展開していますから,色あせない,普遍的な価値をもつ部分もたくさんあるだろうと,自負してもいます。
あの時にしか,出せなかった本でしょうし,二度と組めない執筆陣だからこそ,価値があるともいえるかもしれません。

たまに,「よくぞそこまで読み込んでくれました!」とこちらが思うほど,読み込んでくれた上での感想をいただくことがあり,そんなときはとても嬉しく,作者冥利に尽きます。
その一方で,実はときどき,amazonのカスタマーレビューを見ることがあるのですが,残念ながら,ここでは,けっこう,酷評されています。(--;)
論文も,本も,書き終わってしまうと著者の手を離れてしまうものだということは,これまでの執筆経験から,身にしみていることですし,それぞれの方の読み方があると思っています。
まずは手にとって頂いたこと,そして読んで頂いたこと,それだけでありがたいことです。
まして,感想をいただけることは,わざわざお手間をかけているわけで,本当にありがたいことです。
そして,感想をお寄せ頂いた方々は,プロの物書きではありませんし,匿名で書かれるものですから,必ずしも書評を書くためのトレーニングを積んでいるわけではありませんし,文章に責任を負う義務もありません。
ですから,自由にお書き頂いて構いません。(というか,私には,止める方法も,止める権利もありませんし…)
そんなわけですから,カスタマーレビューは書評とは違ったものとして,私も読ませて頂きますし,それはそれで,よいのかなと思っています。
うーん,「よいのかな」と言うよりは,「しょうがないのかな」という感じでしょうかね。正直な気持ちとしては。
なにしろ,反論できませんから。

ちなみに,書評の基本は,著者の言いたいことを,著者の視点にたってまずは共感的に感じ入ることから始まります。
著者がなぜ,どのような思いで,このような文章を書いたのかを共感的に理解し,その上で初めて,「こんな書き方もあったのではないか?」といった批判を添える。
そうでないと,単に,「独りよがり」な読み方による,「ないものねだり」的な批判になってしまう。
私自身,大学院レベルの授業では,「ないものねだり」的な,一方的な批評を学生がした場合は,厳しく戒めます。
なぜならそれは,そもそも「きちんと読めていない」ことの証明でもあるからです。
そうした読書のトレーニングを十分に積んで初めて書評ができるわけです。
論文を書くよりも難しい。
その意味では,同じくらいの分量の書き物を世に出していなければ,書評をする資格はないと言っても過言ではありません。
…といいながら,やむを得ず,私自身,身の丈を越えた書評を引き受けることがありますが,実は,書評は自分がもっとも引き受けたくない仕事の1つです。
自分のために読む時の読み方以上のエネルギーが必要ですから,時間的・精神的余裕がないと,引き受けたくない。
ちゃんと読み込めていない時は,批判もできません。
実際,以前,十分に読み込む余裕がなく,そして十分に執筆できる時間がなく,「書評ではなく,紹介という形にして下さい」と編集者にお願いをして,その本の背景や意義のみを述べて形にしたことがありました。
もちろん,こんな形のものは,研究者として恥ずかしいんですけどね。

そういえば,以前,私の修士論文を,上農正剛先生に読んで頂いた際,丁寧なお手紙をいただいたのですが,あまりにも的確に私の意図を読み解かれたのに脱帽でした。
論文には示していない,言外に込めた思いや,影響を受けた社会学者の名前,隠れた戦略的な意図までも,見事に射貫かれました。
あの時は,「参りました!」って感じでした。
丁寧に読まれた上で,その裏の意図まで見破られた時は,勢いだけ激しい批評の数倍も「ヤラレタ!」感が強いです。
その逆に,的外れな批評は,それがどんなに厳しい言葉でも,「なんでちゃんと読んでくれないんだろうか…」という思いだけが残り,書き手の心を射貫きません。

残念ながら,カスタマーレビューや,その他いろんな形でお寄せ頂く感想では,なかなか心に届く批評に出会うことができません。
なにしろ思うのは,この本に多くを求めないでほしい,ということです。
この本は,編者である私の,ごくごくシンプルな主張に,少なくともその部分においては賛同して下さった,立場の異なる著者の方々が,それぞれのお立場から論を展開して下さって,できあがったものです。
ですから,極論すれば,たった一つのことしか,主張していません。
そもそもどんな論文でも本でも,筆者が持っている知識や思いと比べれば,ごく一部しか形にできていないものです。
ですから,おそらく著者は誰でも,できあがったモノに対して,「これしか書けなかった…」という思いを,少なからず感じるものではないでしょうか。
その上で,特にこの本は,究極的にはたった1つのメッセージだけを伝えるために編纂したものなのです。

さて,先に述べたように,カスタマーレビュー等では,反論の機会がありません。
そして自由に書けます。
「本は市場に出回るものだから,どんな読み方をしてもよいし,感じ方はそれぞれの読者の自由だ」という主張もありうるでしょう。
しかし本当にそうでしょうか?
ヘーゲルの「精神現象学」を読んで,あるいはカントの「実践理性批判」を読んで,「さっぱりわからん!」と読者が思うのは,ヘーゲルやカントが悪いのでしょうか?
ちなみに私は,クラッシック音楽はさっぱりわかりません。
そんな私が,モーツアルトを聴いて退屈で寝てしまったとして,それはモーツアルトのせいなのでしょうか?
感じ方は人それぞれ,その人の自由だとはいえ,やはりこんな私が,「モーツアルトはくだらん!」と批判するのは,モーツアルトとその熱心なファンを冒涜する行為だと思います。
なぜなら,私はその「面白さ」を味わうほどの知識も耳も持っていないからです。
同様に,私は千円のワインと1万円のワインを飲み比べても,違いがわからないかもしれません。
仮にその違いがわかったとしても,たぶん1万円と10万円とでは,違いがわからないでしょう。
では,10万円のワインには,10万円の価値がないのか?…違いますよね。
わかる人には,違いがわかるわけです。
ウイスキーは好きです。
アイラ島のシングルモルトウイスキーの独特なカスク臭が好きです。
…ここまでは,味わえます。
でも,それよりも細かい違いとなると,並べられてテイスティングをすればわかるかもしれませんが,ムリかもしれません。
で,これもワインの話と同様です。
私自身の「わかる」「楽しめる」水準が,そこまでしか達していないということであって,ウイスキーが悪いわけではない。
そしてこの水準は,経験(トレーニング)によって変化します。
高校,大学と,フォークギターを弾いていました(当時はChage&Askaが流行っていました…そんなことはどうでもいいのですが)。
ギターの音の違いは,弾きこなしていくうちに,そして良いギターに触れていくうちに,だんだんわかってきました。
そのうち,1万円のギターが弾けなくなりました(まあ,このレベルだと,音はもちろん,それ以前にネックが反っていたりもしますが…)。
そして2〜3万円のギターと10万円のギターとでは音の厚みが全然違う!と感じるようになりました(そして10万円のギターを買いました)。
その後,マーチンやギブソンといったトップブランドの音を「良い!」と思えるようになりました。
そしてギブソンの枯れた音色に惚れ込み,18万円のギブソンJ50を買いました(中古で,今思っても破格だったと思います)。
でも,20万円くらいのギターと,50万や100万のギターとの差は,私には,わかりません。そして現在に至ります。

やたらとたとえ話が長くなってしまいました。
で,本も同じだと思うんですよね。
だからこそ,批判をするためには,まずはその本をしっかりと読めていなければいけないだろうと思うわけです。
そのためには,やはりそれなりのトレーニングが必要ですし,そして責任が伴います。
それが,「書評」だと思うのです。
誰でも自由にカスタマーレビューが書け,それが購入の際の参考になるというシステムの良さもあるでしょうけれども,やっぱり,疑問も残りますね,正直。
せめて,著者からもコメントできるようにしてほしいなと思います。
(ホテルや旅館のネット予約システムでは,宿からの返事も載っていますね。)

なので,ここで,口頭でお寄せいただいた感想なども含め,これまでいただいた感想へのリプライをしたいと思います。

「聾教育を始めた人や,手話に興味を持つ人への最適な入門書」と仰って下さる方,お気持ちはありがたいのですが,やっぱりこれは「入門」レベルではないですね。(^_^;)
(「皆に読んでほしい」という意味でのリップサービスなのでしょうけれども…)
というのも,各執筆者にお願いする段階で,「わかりやすく概説書を書くのではなく,今こだわっているマニアックなこだわりを深く掘り下げて書いてほしい」と頼んでいるからです。
ねらいとしては,今まで聾教育に関して,悶々とした思いを抱えて何年も過ごしてきた人が,この本を読んで,次の一歩が見えた!みたいになってもらえたらありがたいなと。
実際,「目から鱗が落ちた!」といった感想をいただくこともありますが,(リップサービスとしても)これは嬉しいですね。

「日本手話賛美の本だ」と仰る方もいますが,それもいまいちピントがずれている気がします。
たしかに必要だと私は思っていますし,おそらく全ての執筆者も同様でしょう。
しかし,本のねらいとはちょっとズレている気がします。

「(聴覚)口話法をやみくもに否定している」と仰る方は,たぶん,誤読です。
少なくとも私自身は,自然法的な聴覚主導の教育は,日本語獲得を行うための効果的な方法の1つだと思っています。
むしろ,「聴覚口話法で指導を行う場合であっても,必要なことがある(そしてそれが欠けていた)」と言いたいわけです。

「古い聴覚口話批判であり,現在の聴覚口話法をわかっていない」というご批判もいただきました。
また,「現場をわかっていない研究者が書いている」というご批判もいただきました。
多彩な執筆陣にお願いしてできあがったものですから,それぞれのお立場はあろうかと思います。
とはいえ,聴覚口話法を批判的に論じている人は,少なくとも私の認識では,最先端の聴覚口話法を想定していると思います。
そしてなにより,その実践をくぐり抜けて自己批判的に論じられている実践者も複数名おられます。

「手話を使った上で,日本語の獲得はどうするのか?」といった,言語指導法の具体例が載っていないことを指摘される方もいます。
この本では,そこまで踏み込んで論じるつもりはありませんでした。
それは,この本の先に,さまざまな方に展開していただきたいと思っていました。
この本は,「指導法がどうあるべきか?」を論じた本ではなく,その前に必要な大前提を確認することが目的です。
「…について,言及していない」といった形の論評をいただくこともありますが,私自身,自分が伝えたいことのうち,書き物で示せるのは,ごくごく僅かなことにすぎないというジレンマの中で,モノを書いています。
おそらく,他の著者の方々も,同様でしょう。
この本では,出発点を示したに過ぎません。
あるいは,「出発点にすら,たっていない」ということを示したに過ぎません。

この本を私が企画したときは,まだ筑波大学で技官をしていたときでした。
そして,群馬大学に講師として赴任したばかりの頃に,執筆の依頼が済み,明石書店の会議室で,企画会議を開きました。
今思うと,改めて,大それたことをしたなぁと思います。
なにしろ,ほとんどの執筆者の方々は,私よりも年配です。
それどころか,その世界の第一人者だったりします。
よく,こんな若造の頼みを聞き入れて下さったと思います。
そして,「呉越同舟」とまでは行きませんが,立場の異なる人たちが,集まって下さいました。
まさに,あの時期,あのタイミングだからこそ,執筆に賛同が得られたのでしょう。
先日,当時明石書店におられて,この本を担当して下さったTさんとお会いした際,「この本は,二度と交わることのない人たちが,一瞬だけ近づいた瞬間に作られた本ですよね」と指摘されました。
さすがTさん,この世界をよく見ています。
では,この本で伝えたかったことはなんだったのでしょう?
それを書いちゃ,つまんないですね。
ぜひ,それをつかむつもりで,今一度,お読みいただけたらと思います。(笑)

2007年8月10日 (金)

ようやく一息…

今,京都出張から帰ってきました。
以下は,京都出張中の新幹線で書いたものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
怒濤の日々でした。
研究室の引っ越しと認定講習が重なり,息つく暇もない毎日でした。
といっても引っ越しの方は,わがアシスタント,Oさんに,ほぼ完全におまかせ状態でしたが(頭が上がりません…m(__)m )。
ようやく,京都行きの新幹線に乗り,一息ついたところ。
なかなかブログも更新できない毎日で,チェックして下さっていた方々,申し訳ありませんでした。
明日,残った机だけを仮研究室に運べば,引っ越し終了。
後は,半年間,改築が終わるまで我慢してすごす,と。
認定講習は,やっぱり,夢中になって話すので,体力を著しく消耗します。
聞いている方も,疲れるでしょうけれども。
でも,「全く眠くならなかった」とか,「気が抜けなかった」という感想をいただくと,けっこう嬉しかったりします。
どんなに良い内容の話でも,退屈で寝てしまったら,意味ないですからね!
受講生のみなさんも,お疲れさまでした!
ゆっくり休んで下さい。

2007年8月 2日 (木)

現在引っ越し中…

研究室のある建物が,耐震補強の改修工事に入ります。
いきなり,強制退去みたいな感じで,引っ越しの日程が慌ただしく決まり,
大あわてで,引っ越し作業をしています。
今日,あらかた,片付けました。
(学生のみなさん,ありがとうございました!)

半年ほどの間は,個人研究室ではなく,「職員室」のような形のところで過ごします。
GB棟1階という,以前,学務の学生センターがあったところです。
(わかる人にしかわからない話ですが…)
電話は,障害児教育講座の教員の間で,共用利用になります。
私の番号はそのままなのですが,他の教員が出る可能性もあります。

いろいろな方面に,ご迷惑が及ぶかもしれません。
その時は,申し訳ありません。

半年後には,きれいな研究室で,皆様をお迎えしたいと思いますので,しばらくの間,ご容赦いただければと思います。m(__)m

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