エンガチョ!…日本的差別感を考える(平成18年5月11日)
この,「障害字教育入門」は,実験的に,「障害児教育専攻1年生のホームルーム」を目指そうと思っています。
話す内容は,みなさんのニーズに合わせて,臨機応変に変えてみようかなと思ってます。
だから,「こんな話をして下さい」ということがあれば,紙に書いておいて下さい。
応えられる範囲で,要望に応えたいと思います。
直接障害児教育に関係ない話でも,必要があればなるべく考えていくようにしたい。
そこが,「ホームルームにしたい」という意味です。
障害児教育専攻生として,これから4年間の大学生活を充実したものにしていくために必要なこと,という視点で,話す内容を考えていきたいと思っています。
でも,中には,障害児教育専攻以外の学生で,上級生の方もいますね。
Mさん,Kさん,Sさんとか。
2年生の場合,まだこれから先長いので,いろいろあると思います。
そんな意味で,これからの学生生活に必要なことは何か?っていう視点で,授業を聞いてもらえたらありがたいです。
Tさんは最上級生ですね。
その場合,逆に,4年生になったらどういうことが必要かといった話を,Tさんに協力してもらって,話をしてもらうかもしれません。
そのときはよろしくお願いしますね。(T/はい。)
さて,今日お話しようと思ったのは,前回の,「障害は相対的である」という話の続きです。
差別はどうしておこるのか。人はどうして差別をするのか。
細かく切り分けて整理していったときに,「あるものを異質に感じるのはどうしてか」とういうことを考える必要があると思うんです。
いろんな理由があると思うのですが,その中に,日本的な感覚があると思うのです。
日本的な差別感は,独特なものがあります。
どういうことかというと,目に見えないものに対して,差別が起きるということです。
たとえば,外国にも,白人と黒人の間の差別があります。
肌の色の違い,見れば判ります。
もちろん,その違いがあるから差別をして良いという話では全くないんだけど,差別が生じる原因となっている「差違」は,目に見える形で表れている。
一方,日本の同和問題はどうか。
日本の歴史の中で,脈々と続いています。
でも,ある部落の人と,そうでない人とのあいだに,外面的に確認できる差異はない。
つまり,そのことを知らなければ,まったくわからないわけです。
こういう,目に見えないものに対して差別が起こるのは,日本独特の感覚。
「障害があるかどうか」については,身体的な差違はあるかもしれません。
でも,例えば「口からよだれを出している」として,それはきたないと思うかもしれないが,拭けばきれいになるはず。
でも,拭いてきれいになったのに,「キタナイ」気がする。
あるいは,今はよだれを垂らしていないのに,汚い気がしてしまう。
それこそ,顔を洗ったばっかりでも,いったん「キタナイ人」と思いこんでしまうと,それが頭の中から離れなくて,なんだか「キタナイ」気がしてしまう。
もしかしたら,このことと,部落差別は似ているのかもしれません。
まだピンとこないかもしれないけど。
「エンガチョ」って,みなさん知ってる? 自分の小さいころあった人いる?
(学生/「千と千尋」で…)
ああ,「千と千尋の神隠し」で出ていましたね。
あの場面の,トトロの「まっくろくろすけ」みたいなのが出てきて。
どんな場面でしたっけ?
(学生/それを千尋がつぶしちゃって,かまじいが,「エンガチョ」って。)
そう。こうやりますね。
これをすることで,エンガチョから逃れられるということ。
「縁がきれる」っていうことですよね。
あれはどういう意味なのか,わかる?
(学生/死んじゃって,あわてて…それをこわがるっていうか。のろわれないように見たいな。)
そうですね。ある種のおまじないみたいな。
これ,僕が知っているエンガチョとは,似てるけど,ちょっと違うと思ったんです。
僕が小学校のころにあったのはですね…例えば私がウンチを踏んだとします。
するとみんなから「きたねえ」と言われる。
その次に,みんなから,「あいつ,エンガチョ!」といわれる。
その瞬間,僕は「エンガチョ」なる存在になってしまいます。
キタナイ存在。
でも,僕がエンガチョを逃れる方法があります。
「エンガチョ」と言われたら,急いで,ハッシーに「エンガチョ」って言いながら,タッチします。
こまったハッシーがまた僕につけようとする。
でも僕は,「バリア!」といって,こうします(人差し指と中指を交差させる。「ら」の指文字の形)。
すると,僕につけ返すことはできなくなります。
こういうの,あった人?…あ,あるね,やっぱり。
(学生/エンガチョとはいわなかったです。)
はい,言葉には地域差があるみたいですね。
バリアとかある?(学生/あります。)
ちょっと確認してみましょうか。(一人一人,やり方を確認)
はい,バリアには3通り出ました。
手をグーの形にして,胸の前でクロスさせるのもあるのね。
ちなみにこの形,アメリカ手話で「LOVE」です。
エンガチョが何かということを,外国人に説明するとき,行為の部分だけで説明しても,「鬼ごっこ」にしかならないんですよね。
「鬼ごっこ」と「エンガチョ」,何が違いますか?
僕がタッチされて,今度は僕が追いかける。
「かたち鬼」とか「いろ鬼」とか,「バリア」みたいなものがある場合もありますよね。
「たか鬼」もそうだよね。
高いところにいたら,タッチできないんだよね。
いわば,「聖域」を作ってるんでしょ。
陣地をつくる。
けーどろもそうでしょ?(学生/どろけいだった。)
「どろけい」か「けいどろ」か。高崎と渋川を結ぶ道路を「高渋線」というか「渋高線」というか,みたいな違いだね。
どっちでもいいよ。
じゃあ,「エンガチョ」と「鬼ごっこ」のちがいはどこにあるんだろう。
僕は,この1点に尽きると思うのは,この言葉で言い表そうと思う。
「臨在感」
「そこに何かがあるような気がする」ということ。
「エンガチョ」って言われると,キタナイものが確かにある気がしてしまう。
いくつかなぞがある。
例えば僕がウンチを踏んだとします。
そして「エンガチョ」と言われてしまいました。
このキタナイのを誰かに移して解決しようとすれば,…この,ウンチ踏んだ靴を脱いでハッシーになすりつける(靴を脱いでなすりつける真似)。
そうすると,たしかに汚いのが移りますね。
でも,問題は解決していないんです。
なすりつけたって,私の足下からは,臭いニオイが漂っています。
これは「ゾンビ」なんです。
鬼ごっこみたいな遊びで,どんどん増殖していく系,ありませんか?
「手つなぎ鬼」もそうですよね。
さて,エンガチョは,どうでしょう?
キタナイと言って,つけるのは手。足じゃない。
手でタッチすることで,開放された気になる。
人に「えんがちょ」っていってタッチして,「バリア」と言って,安心する。
今,ハッシー,えんがチョって言われて嫌な感じする?(ハッシー/あんまり。)
10歳くらいの子だったら?(ハッシー/あわてる。)
ちょっと皆さんの反応を試してみましょうか。
「エンガチョ」と言って,僕はハッシーにつけました。
ハッシーどうする?(ハッシー/ハヤトにつける。)
ハヤトにつける?ハヤトは?(ハヤト/ユウチにつける。)
さて,ユウチがエンガチョになりました。
ところがユウチ残念!
ここで休み時間が終わってしまったんです。
チャイムが鳴ってしまい,算数の時間になりました。
算数の時間中,ずーっと,ユウチはエンガチョ状態なんです。
その間,ユウチは「どうしよう…俺,エンガチョだ…」と思っている。
でも残念!
算数の時間が終わるころにはみんな忘れているんですね。
ま,子どもの遊びって,そんなもんです。
でもね,これが一過性のゲームで終わればいいけど,エンガチョが固定してしまうことがあるわけです。
イジメがあったとき,イジメられてる人に対して「○○菌」という言い方をすることがあります。
「かなざわきん」と。
「かなきん,かなきん」といわれる。
すると,本当に何か汚い気がしてきてします。
フォークダンスで「手をつなぎなさい」と言われても,本当に嫌なんですよ。
なんか,本当にキタナイ何かが自分に乗り移ってきてしまうような気がしてしまう。
それが日本的なわけです。
実態のないものなのに,何か汚さをかんじてしまう。
では,なんでそれはそういうことが日本にあるのかということですが,これは一概に言えないが,日本人の中で,穢れ(ケガレ)を忌み嫌うという思想があります。
平安時代,平安京で人の死や血と関わったら,都の外に出なければいけなかった。
お籠もりするってやつですね。
穢れがあるので浄めないといけない。穢れ度によって,どのくらい籠もっているかが決まる。
人が死んだら時や,女性の生理も。出産もそう。
なにが原因かと言うと,血ですね。血が忌み嫌われる。
忌み嫌われるっていっても,平安京の政治を維持するためにも,誰かが死や血に関わる人が必要です。
人の死体を処理する人は,ずっと穢れたままになってしまいます。
そうすると,ずっと都の外にいて,同じ人が仕事をすることになる。
「穢多(エタ)」「非人」の「部落」はそうした日本の宗教感覚からできあがっていったと言われています。
目に見えないが,我々がもっている臨在感と言うのがそうさせてしまっている。
この臨在感は,あながちバカバカしいとはいえなくて,現代の我々にも,残っています。
たとえば,ご飯を食べて,「農家の皆さん,お米を作ってくれて有難う」と,感謝をしますよね。
では,お肉を食べるとき,「牛を殺してくれてありがとう」と言うかっていうと,言いませんよね。
あるいは「自衛隊の方,僕らのかわりに嫌なことをしてくれてありがとう」とは言わない。
豚を殺したりするのは嫌だし,戦争は嫌です。
でも,誰かが対応してくれるから,我々は助かっている。
問題は,その対応してくれる人に対して感謝をするという発想を,どこか持ちにくくさせている何かがあるんじゃないかってことです。
沖縄に行くと,お客さんが来たとき,お祝い事のとき,家畜を殺して,お客さんをもてなします。
殺す仕事は穢れた人がするものだというのは,当たり前なのではなく,なんとなく染みついた感覚であり,無意識の中ですり込まれた思想なのです。
もう少しわかりやすい例もありますよ。
我々の中に染みついた穢れ感。
今一人暮らしの人は実家にいたときのこと,思い出して。
自分専用のハシがある人?(かなりの学生が手をあげる)
自分専用のお茶碗ある人?(かなりの学生が手をあげる)
じゃあ,Sさん,自分専用のおはし,ありますか?
お母さんのは?お父さんのは?ちゃわんは?
はい,ありますよね。
じゃあ,お父さんがある朝,こう言ったらどうですか?
「今日はお父さん,気分変えてミナミの茶碗でご飯を食べるたいなあ。お前,かわりにお父さんのを使ってくれよ。」
どうですか?(笑)
これ,なんかやだなって思った人。(かなりの学生が手をあげる)
じゃあみなさん,カレーライス食べるとき,どうしてます?
スプーン,フォーク,お皿,そういったものは,自分専用になっていますか?
はい,なっていませんねー。
この,穢れ,浄めの感覚は,なぜか不思議なことに,日本の物には宿るのに,西洋的なものには乗り移らないんですよね。
不思議ですねー。
このハシの話は,元ネタがあります。
井沢元彦さんの書かれた『逆説の日本史』です。
興味がある人,ぜひ,読んでみて下さい。
そんなことで今日は時間なので終わりにします。
おつかれさまでした!
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